本日はSea Otter Savvyのブログより、"Sea Otters on the Island of Blue Dolphins, Part 1"をお届けします。Sea Otter Savvyはモントレーベイ水族館や米国魚類野生生物局などが共同で設立した、人間の活動がラッコに及ぼす影響や、ラッコに対するディスターバンスやハラスメントを防ぐための啓蒙活動を行っています。このブログは、このプログラムのコーディネーターであるジェナさんが、ラッコ研究を始めた頃から今に至るまでの、サンニコラス島における活動を振り返る連載記事です。
私のルーツは、深くサン二コラス島に根付いている。まだ少女だったころ、スコット・オデルの「青いイルカの島」のヒロイン、カラナの物語を読みながら丸くなっていた時に私の心に始めて入ってきたのだった。その物語は1835年、住民がみな本土に移ってしまい、サンニコラス島にたった一人取り残されてしまった実在のサンニコラスの女性をもとにしたものだ。この女性は1853年に発見されるまで一人で島に暮らしていた。150年後の2003年、私は大学院のリサーチプロジェクトを始めるにあたって、サンニコラス島へと旅立った。島の砂丘や崖、砂浜での一歩一歩が、サンニコラス島の孤独な女性の魂と共鳴していた。サンニコラス島(サンニックとの愛称で呼ばれる)はカリフォルニアにおいて、ラッコが絶滅から回復する物語の中で重要なパートを占めている。サンニックは一見、ラッコにとって理想的な生息地であり、ラッコの歴史的な生息域の中にある。ここは1980年代後半、原油流出が起こり本土沿岸のラッコが壊滅状態になった際に、回復の基盤となる「緩衝」となるラッコの個体群を作り上げるため場所に選ばれた。1987年から1990年にかけて、本土のカリフォルニア中央部からサンニコラス島へラッコが移植された。移植後、個体群が定着する機関には最低限の数に減ったが、その後サンニックのラッコの個体群は成長を続けている。
移植から30年が経ち、私たち調査チームがサンニック空港へ降り立つ今日、サンニコラス島の個体群は存続しているものの、環境収容力にはまだ届かない。この研究チームは米国地質調査所の西部生態系調査センター(USGS-WREC)の生物学者でありこの30年以上サンニコラス島のラッコ調査を率いてきたブライアン・ハットフィールド、米国魚類野生生物庁のカリフォルニアラッコ回復コーディネーターのリリアン・カーズウェル、USGS-WRECのラッコ生物学者ジョー・トモレオニ、米国海軍(サンニックは現在海軍の遠隔着陸場である)の環境保護専門家のクロ―ディア・マケイェフ、サンニックの卒業生である私だ。私たちはこの青いイルカの島に、ラッコを数えに来たのだ。
2003年、私はほとんど1年をここサンニックで過ごした。当時、毎日のように明るい色のタグを足ヒレにつけ、無線発信機を付けたラッコの研究をして過ごしていた。ラッコたちの毎日の動きや行動を追っていたので、島の周辺海域でラッコがどのように生き延びているか、また繁殖、採餌、動きなどを研究することができた。午後からいつも吹く風を避けるため、毎朝早く私はジャイアントケルプが広がる広大な海でエサを獲っているタグ付きのラッコが運よく見れればと、パートナーとアンテナを掲げ、スポッティングスコープを立てた。その年私が学んだことは、かつての生息域に再定着した際、ラッコがどのように適応するのかという私たちの理解を変えることになった。
最初に新しい生息地にやって来たラッコは、ウニのように豊富にある高カロリーの好物に集中する。他にもラッコが来るようになり、好みのエサが見つけづらくなると、ラッコは「専門家」になる。つまり、道具が必要なエサや、同じスキルで見つけたりえられたりする何種類かのエサを好むようになる。それぞれのラッコが「二ッチ」なエサを食べるようになることで、エサをめぐる競争が少なくなるのだ。
サンニックのラッコは、この島の環境収容力にはまだ至っておらず、そのエサはほとんどが大きなアカウニという栄養価が高く獲りやすいウニを食べていた。カリフォルニアの本土沿岸のラッコはすでに「専門家」化していた。サンシミオンのある岩礁湾では、あるラッコはアワビをとり、別のラッコは石にターバンスネイル(巻貝の一種)を打ち付けていた。この離れた島は、ラッコが個体数が増加するにつれ激しくなる競争にどのように対応していくのかという仮説を確かめるのにうってつけの場所だった。
宿舎に到着して一服すると、調査チームはサンニックの西端で、ラッコが常にいる場所へと向かった。調査が始まる前の夕方、いつも軽く「初見」を行い、最初にラッコの群れを見つけた人をはやし立て、背中をたたくのが伝統になっている。
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