ラッコの歴史 | History
最終更新日:3/27/2018
海の新参者 - ラッコの進化
ラッコはイタチ科の仲間ですが、他のイタチ科の動物たちと非常に異なるため、ごく最近まで、アザラシから進化したものではないかと考える研究者もいました。
研究により、約500万年前には現在のラッコの祖先とノドブチカワウソ、ユーラシアカワウソ、ツメナシカワウソ、コツメカワウソは同じ祖先だったということが分かっています。
進化の過程については正確なことはわかっていませんが、中新世終わりから鮮新世はじめの500万年から700万年前、魚を食べていたカワウソの祖先から進化したものだと考えられています。もともとラッコの祖先は陸上にいましたが、捕食者から逃れ、隠れるところを探し、より豊富な食料を求めて海へ進出したようです。最初は干潮の際現れる二枚貝や巻貝、ウニなどを獲っていたようですが、海の中にはより多くの食べ物があることに気づいたのです。
ラッコの祖先は海へ進出すると、海の環境へ適応し始め、海で生き延びていくために幾つかの特徴を進化させました。撥水性の毛、後ろ足の水かき、ひれ状の足、多い肺活量、真水を飲まずに生きられること、また完全に海で出産・子育てができる能力などです。実際、時々陸にあがって過ごすときもありますが、ラッコは食べたり、寝たり、出産したり子育てしたりという生活を陸に上がらずに全て海の上で行うことができるのです。
現在のラッコは約100万年から300万年前の更新世に北太平洋に出現したと考えられています。
化石によると、約200万年前にラッコの祖先が北大西洋で独立し、すでに絶滅したEnhydra macrodontaという種と、現存のラッコ(Enhydra lutris)に分かれました。もともとは北海道とロシアで進化し、それがアリューシャン列島、アラスカを経て北アメリカ沿岸に下りてきたと考えられています。2000万年~5000万年前に海へ進出した鯨類や海牛類(ジュゴンなど)、鰭脚類(アザラシやアシカなど)と比較しても、ラッコは海に住む動物としては新参者と言えます。しかし、出産の際に陸に上がらなければならない鰭脚類よりは、ラッコはより完全に海に適応した動物と言えるでしょう。
大狩猟時代 'Great Hunt' の幕開け
1741年、ロシアのピョートル大帝の命で、デンマークの探検家ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリング(Vitus Jonassen Bering)が聖ピョートル号で北大西洋に向かいました。航海の目的はアジア大陸と北アメリカ大陸が繋がっているかどうかを調査することでした。ロシアにはこの探検により、国際的な地位を確立したいという目論見がありました。
悪天候のため聖ピョートル号は今日コマンドルスキー諸島と呼ばれる島に座礁してしまいます。乗組員たちは生き残るために、そこにいたラッコを含む海獣たちを狩ることになります。
ベーリング自身はその旅から生きて帰ることはありませんでしたが、同乗していた自然学者ゲオルグ・シュテラーが900枚のラッコの毛皮をロシアに持ち帰り、北アメリカが良質な毛皮の産地であることが知られます。
その品質と高級感は瞬く間に評判となり、多くが中国へ売られ、珍重されました。ラッコの毛皮は富の象徴となり、それを持つことが中国人にとってのステイタスとなります。
ラッコの毛皮はsoft gold(柔らかい金)ともてはやされ、当時ロシアで人気のあったクロテンの毛皮より高い値が付けられました。毛皮1枚が80~100ルーブルで取引されましたが、それは毛皮工場で働く工員の年収と同じくらいの金額でした。
この探検をきっかけに、グレート・ハントと呼ばれる100年の大狩猟時代が訪れます。
ロシアは北アメリカに進出し、17世紀から19世紀後半にかけて世界最大の毛皮供給国となりました。
北大西洋沿岸におけるラッコ猟
寒いアラスカに住んでいた先住民たちは、ベーリングたちがラッコを発見するずっと以前から、生活に必要なものをそこに生きる動物たちから得ていました。食べ物はもちろん、家を建てる材料、道具や衣服などです。アラスカ先住民たちは、カヤックに乗って狩りをする名人でした。彼らにとってはすべての動物たちには魂があり、敬意を表すべき存在でした。先住民の中には、族長と熟練者にしかラッコ狩りが許されていない部族もありました。
1760年にアラスカでゴールドラッシュならぬファー(毛皮)ラッシュが起こり、ラッコたちはもちろん、先住民たちの生活は激変しました。彼らに期待された猟が、先住民たちの古来の考え方を変えてしまうことになります。
アラスカを植民地としたロシアは、アメリカと合弁で露米会社を設立します。露米会社は毛皮を含む交易を独占的に行いました。彼らはアラスカ先住民の熟練した猟の技術を用いて、ラッコなどを獲りました。
営利企業ですから、もちろんラッコが将来どうなるかなどとは考えませんでした。露米会社だけでなく、商業貿易船も同様でした。
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カリフォルニアにおけるラッコ猟
露米会社はカリフォルニアでも操業しました。
1803年から5年までの2年間で、カリフォルニアでは17,000以上のラッコの毛皮が獲られました。露米会社とあるアメリカの船は年間で9,356枚の毛皮を獲るという記録を打ち立てました。
露米会社はフンボルト郡のトリニダード湾からバハ・カリフォルニアまでラッコを獲りつくしました。露米会社がカリフォルニアで活動した35年間で、10万枚以上の毛皮が獲られ、その多くは商業船を通じて中国へ売られていきました。このようにして、1820年代にはカリフォルニアのラッコはほぼ絶滅してしまいました。
日本におけるラッコ猟
作成中
毛皮貿易
近世の北東アジアを中心に見た、ラッコの毛皮交易に関する動画
(c)県立広島大学人間文化学部国際文化学科
乱獲から保護へ
19世紀中頃にはラッコはほぼ絶滅状態となっていました。
そのため、1911年、ロシア、日本、アメリカ合衆国、イギリス(カナダ)の4か国の間で膃肭獣保護条約(おっとせいほごじょうやく)が締結され、オットセイやラッコの商業狩猟についての規制が定められました。これは動物の保護を謳った初の国際条約となりました。
膃肭獣保護条約は具体的にはオットセイの遠洋狩猟を禁止し、アメリカに対しては沿岸でのオットセイ猟を認めるものでした。その代り他の加盟国には、条約が有効な間については補償金もしくは一定の条件下で決められた数量の毛皮の狩猟を認めるというものでした。
アレウト人(アリューシャン列島に住む)やアイヌなどの先住民族には、商業目的でない狩猟、つまり食料や防寒等の目的の狩猟については例外が定められました。
条約は15年の時限条約で、日本は更新を望みましたがアメリカの反対により改定は行われず、1941年に条約は失効しました。
こうして、1741年から1911年までの約170年間で、ラッコの数は激減し、アラスカおよびカリフォルニアに13の分散した小さな個体群のみが残ることとなり、その個体数は世界中で1000頭から2000頭程度になってしまいました。
ラッコの「再発見」
カリフォルニアでは、ラッコは絶滅したと考えられていましたが、1938年、ビック・サーのビクスビーブリッジ沖で50頭ほどのラッコの群れが「再発見」されました。
おそらくは、正式発表される前にすでにラッコが生存していたことは地元の住民や政府には知られていたかもしれませんが、公表することでラッコたちがかえって危機に瀕する可能性もあるため、保護についてある程度目途がたつまで、あえて公表しなかったのではないかという説もあります。
現在カリフォルニアで繁殖しているラッコたちはみな、この生き残ったラッコたちの子孫なのです。
再導入の取り組み
1960年代から70年代にかけ、冷戦が世界を脅かしていた頃、ラッコもその影響を受けていました。アメリカはアリューシャン列島のアムチトカ島で地下核実験を行うことを決めました。それに先立ち、ラッコを捕獲しアラスカの他の場所やワシントン州、オレゴン州に移殖するという試みが行われました。
核実験後、アラスカ大学フェアバンクス校が行った調査によると700頭から2000頭のラッコが爆発の過圧力により死亡したそうです。この影響は、アメリカ原子力委員会が想定した数よりもはるかに多かったのです。
この期間、かつてラッコが生息していた地域へ再導入が行われました。
アラスカ州アムチトカからアラスカ南東部へ、そして、1969年から72年にかけて、アラスカ州のアムチトカ島とプリンスウィリアム湾からカナダのブリティッシュコロンビア州バンクーバー島へ計89頭のラッコが移殖されました。
また、69年と70年にアムチトカ島からワシントン州へ計59頭、70年と71年にオレゴン州へ計93頭が移殖されました。
アラスカ州南東部、ワシントン州、カナダのバンクーバー島ではその後順調に数が増えていますが、オレゴン州では残念ながら定着することはありませんでした。
ラッコの輸送は難しく、ストレスで死んでしまったものの少なくありませんでしたが、この再導入を通じて輸送技術が向上しました。
また、カリフォルニアでは原油流出に伴う個体群全滅のリスクや、ラッコによる漁獲高への影響を懸念した漁業団体からの強い申し入れがあったため、1987年にNo Otter Zone(ラッコ排除水域)を設置することになりました。これはコンセプション岬からメキシコ国境までの間の管理水域に迷い込んだラッコを全て捕獲してサンタバーバラ沖になるサンニコラス島へ移し、新たな個体群を作るというものでした。しかし、新たな場所に定着するラッコよりも、捕獲や輸送の段階で死んだり、リリース後に泳いでいなくなったりしたラッコのほうが多かったため、結局はそのプログラムは2012年に正式に中止となりました。それに反対する漁業団体がNo Otter Zoneの復活を求めて何度も裁判を起こしていますが敗れています。
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