1989年3月24日、1艘の巨大タンカー、エクソン・バルディーズ号がアラスカ州プリンスウィリアム湾のブライ岩礁にぶつかり座礁し、当時米国史上最悪の原油流出事故となりました。
バルディーズとスワードにラッコレスキューセンターが作られ、多くのスタッフとボランティアが、油で汚染されたラッコを懸命に助けます。この洗浄・リハビリを行ったポイントデファイアンス動物園水族館のローランド・スミス氏の本、Sea Otter Rescueの翻訳をお届けします。本の写真は掲載できませんので、Archive.org(https://archive.org/details/seaotterrescueaf00smit/page/n71)でご覧ください。
エサやり
ラッコは代謝が高いため、ラッコに適切なエサを与えることが重要だった。エサの準備はエサの管理者と1名もしくは複数のボランティアにより行われた。医療スタッフがエサを選定し、トレーラーに運び込んで準備をした。
ラッコの食欲需要に応えるため、ラッコレスキューセンターには数百パウンドもの新鮮な海産物もしくは冷凍の海産物が空輸された。これは非常に高額なもので、センターで50頭から80頭のラッコを食べさせるために1日に1,200ドル(約13万円)かかった。
ラッコのエサやりは日に5回行われ、食べたいだけ食べさせた。エサはエビ、ホタテ、カニ、ハマグリ、イカ、ポロック(訳者注:白身魚の1種)などの魚だった。またラッコには淡水を摂取するためあるいは遊ぶために、氷が与えられた。
レスキューに携わる人々はそれぞれ複数のラッコを担当した。その仕事にはエサやりも含まれた。ラッコにはそれぞれ専用のエサバケツがあった。レスキューの人々はそのバケツをエサ準備の担当者のところへ持って行き、適切な量と種類のエサを入れてもらった。エサは腐敗を防ぐため、氷の上に置かれた。
コミュニティタンクではラッコのエサやりを2人が手伝った。ひとりがエサをやっている間、もうひとりはどのラッコが何のエサを食べているかをよく見て、表に記録した。
ラッコが食べるエサの量はそのラッコがどの程度元気かを示すものだ。あまり食べていないラッコは獣医による治療が必要な感染症にかかっている兆候を示している場合があった。
ラッコのリハビリで最も重要なことの一つは、ラッコをただよく観察するということだった。24時間ラッコを観察すると、観察している人はそれぞれのラッコについてよりよく知ることができ、それぞれのラッコの「正常な」状態が分かるようになる。このようにしてラッコが異常な行動をし始めたら気づくことができるのだ。
ふるえや喘ぎ、けいれん、出血、常に体をかきむしる、グルーミング不足、異常な鳴き声などのような兆候は全て観察者が記録を行った。こうした兆候は何か問題になる可能性があったからだ。観察者はまたラッコがどの程度泳いだり寝たりグルーミングを行うかなど、一般的な行動も記録した。
ラッコの体重の増減を確かめるため定期的に体重測定が行われた。体重測定にはそれほど時間がかからないため、鎮静させる必要はなかった。ラッコを水槽から網ですくって網ごと運び、測りに乗せるだけだった。
母と子
子どもと一緒にレスキューセンターに運ばれた母親ラッコもいた。母親の体の状態が悪く捕獲によりストレスを受けたため、こうした母親は通常子ども、特に非常に小さい赤ちゃんの面倒を見ることができなかった。従って、そうした赤ちゃんラッコは人間が育てなければならなかった。妊娠中に運び込まれラッコレスキューセンターで出産したメスもいた。残念ながら母親は非常にストレスを受けており十分に子どもの世話をすることができないため、母親から引き離さなければならならない子どもがほとんどだった。
赤ちゃんラッコは成獣のラッコとは扱いが全くことなっていた。トレーラーの一つが養育室として作られ、赤ちゃんを育てるためスタッフが特別に訓練を受けた。敏感な赤ちゃんに成獣から病気が写らないよう、養育室で働くスタッフは成獣のラッコに触れることを禁じられた。
ラッコは生まれた時3パウンド(約1.3kg)をわずかに超えるほどで、ほぼ何もできず必要なことは全て母親に依存している。ほとんどの赤ちゃんは反応がよくないため、レスキューの人々は最も簡単で安全なエサやりの方法として、チューブで胃に直接調合ミルクを流した。このように直接位に流し込むことで、赤ちゃんラッコが誤飲して肺に入って肺炎を引き起こすことを防ぐことができる。
赤ちゃんラッコには2時間ごとにエサが与えられた。母乳の代わりに特別に調合されたミルクが開発された。このミルクはハマグリ、イカ、5パーセントのブドウ糖(砂糖)、殺菌したミネラルを含む水、ハーフアンドハーフ(訳者注:コーヒーや料理に使う、乳脂肪分10%~18%程度の加工乳)、ビタミンサプリメントから作られる。
赤ちゃんラッコが生後5~6週間になると、養育室のスタッフは固形のエサに移行させていく。移行の際、ホタテを細かくしたものを与えていた。赤ちゃんラッコが固形のエサを受け入れるまで通常2,3日かかった。固形のエサを多く食べるようになると、調合ミルクを減らし、最終的には完全に卒乳する。
養育室のスタッフは、ラッコの母親同様赤ちゃんを抱いたりグルーミングしたりするのに非常に多くの時間wお費やした。このように育てるのは赤ちゃんラッコの健康にとって非常に重要なのだ。抱っこしたりエサを与えていない時は、華氏60度(摂氏15度)のウォーターベッドの上に置かれていた。ベッドの上にはタオルが置かれ、赤ちゃんラッコが寒くなったら自分でタオルに包まれるようにしてあった。
エサやりが終わると、赤ちゃんラッコは魚の輸送用のプラスチック桶に入れて泳ぐ。体調により、日に3時間か4時間水の中に入れられていた。泳いだ後は養育室に戻し、タオルで乾かしたあとドライヤーで乾燥させた。
このように、母親代わりの人間と密接に過ごすため、赤ちゃんラッコたちは人間に慣れてしまった。つまり、残念だがこうした赤ちゃんは全て海の親と再び一緒になることができず、そのため、野生に返すこともできなくなった。その代わり、赤ちゃんラッコたちは適切なお世話をする施設のある動物園や水族館へ移された。
野生へ帰る
運び込まれる汚染されたラッコのために場所を開けなければならないので、回復したラッコはセンターから移動しなければならなかった。健康になったラッコはスワードのラッコレスキューセンターのすぐ外にある大きなフローティングペン(訳者注:海に浮かぶいけすのような囲い)に移された。フローティングペンの下と側面には網があり、ラッコが逃げられないようになっている。この囲いに移す前に体重を測定し、最後の採血が行われた。
この囲いの中でラッコは数日間慎重に様子を見られることになっていた。健康な様子であれば捕まえて抗生物質を注射し、ケージに入れてアラスカ州ホーマーの近くのリトルジャコロフ湾に作られたフローティングペンに空輸された。
リトルジャコロフ湾のホールディングペンは1つあたり一度に80頭のラッコを収容できた。人間との接触は最小限に抑えられた。これらの囲いでは、ラッコには生餌が与えられた。ラッコにとっての次のステップは自由だったが、放流するよりも捕まえるほうが楽なこともあった。
Roland Smith
Sea Otter Rescue - The Aftermath of an Oil Spill
Published in 1999
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