【記事】ラッコレスキュー:原油流出事故の影響 6 | Sea Otter Rescue : The Aftermath of an Oil Spill part 6

1989年3月24日、1艘の巨大タンカー、エクソン・バルディーズ号がアラスカ州プリンスウィリアム湾のブライ岩礁にぶつかり座礁し、当時米国史上最悪の原油流出事故となりました。
バルディーズとスワードにラッコレスキューセンターが作られ、多くのスタッフとボランティアが、油で汚染されたラッコを懸命に助けます。この洗浄・リハビリを行ったポイントデファイアンス動物園水族館のローランド・スミス氏の本、Sea Otter Rescueの翻訳をお届けします。本の写真は掲載できませんので、Archive.org(https://archive.org/details/seaotterrescueaf00smit/page/n71)でご覧ください。

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スワード ラッコレスキューセンター

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油がバルディーズから遠くへ広がっていくに従い、救命に間に合うタイミングで汚染されたラッコをレスキューセンターへ運び込むことがますます難しくなってきた。そのため、汚染されたラッコが発見される場所から近いアラスカ州スワードに2つ目のラッコレスキューセンターが作られることになった。

 

レスキューに携わる人々は、バルディーズのレスキューセンターから情報をもらい、スワードの施設の建設を行った。10の建物が海のそばに設置された。それぞれの建物ごとに用途があり、建物や設備は倉庫にしまえるようになっていた。将来的に別の原油流出事故が起きた際、それら施設は流出場所へ荷船で運び、組み立てることができるようになっていた。

 

この施設が完成するまで不眠不休で2週間半かかった。エクソン社はこのスワードのラッコレスキューセンターの建設のため200万ドル(約2億円)を払い、その運営にひと月あたり100万ドル(約1億円)以上がかかった。

 

スワードのレスキューセンターでは、12時間交替で働くフルタイムのスタッフが雇用された。フルタイムのスタッフをサポートするため、毎週200名から300名のボランティアが利用された。バルディーズのラッコレスキューセンター同様、スワードの施設ではアメリカ中から集まった動物の専門家や獣医、病理学者や毒物学者が採用された。

 

2~3週間の予定で働くボランティアが毎日やってきたが、宿泊施設が少なかったため、浜にテントを立てて寝なければならない者もいた。ボランティアは、主婦、教師、ビジネスマン、学生、弁護士、アーティストなど様々な職業の人たちだった。休暇をとってきたボランティアもいれば、ラッコを助けるために仕事を辞めてアラスカへやって来た者もいた。

ラッコの回収

まずレスキューセンターへ運ばれてきたのは、オイルフェンス関連で働いていた人たちが捕獲したラッコだった。最終的にはレスキューセンターはラッコを集めるのに地元の漁師らを雇用した。船には網と汚染されたラッコを輸送するケージが備えられていた。中には一度に数週間海に出ている者もいた。

 

ラッコを回収する者たちにとって、克服しなければならない障害が多くあった。問題の一つは、油が広がっている水上で作業をすることだった。一日海の上にいると、多くの船員が頭痛や吐き気を訴えた。こうした症状のいくつかは、水面から大気中に立ち上ってくる有害な油の蒸気によるものだった。

 

また、油がどこにあるのか性格な情報を得られないことも問題だった。油膜がその規模を拡大するにつれ、強風と潮の満ち引きにより油膜が数百もの小さな油膜に引き裂かれ、湾の中にあったと思えば数時間後にはどこかへいってしまうこともあった。そのため、船員らが油で汚染されたラッコがどこにいるのか知ることは困難だった。

 

多くの船や飛行機、ヘリコプターが油の洗浄のために作業していた。そうした人々は、ラッコの回収を行う船にと可能な限り連絡を取り合い、油がラッコを汚染している可能性のある場所を教えていた。

 

湾内で油の洗浄作業を行っている者がラッコを見つけた場合は、回収船に無線で連絡を行った。最も近くにいる回収船が急いで向かってラッコを引き取り、できるだけ迅速にラッコレスキューセンターへ移送した。

 

最初に汚染されていたラッコは非常に状態が悪かったため、回収員らは浜でラッコに近づいてケージに入れることができた。しかし、汚染されたラッコの捕獲は常にそのように簡単にいくわけではなかった。特に、水の中にいる時にはそのラッコが油で汚染されているのかどうか見極めることさえ難しかった。

 

ラッコは自由に動ける水の中にいることで安全を確保している。最後の手段として陸に上がることがあるが、そのような場合でも危険を察知したらすぐに水に戻れるよう、水際にとどまる。レスキュー船は通常湾内に入り、高出力の双眼鏡でラッコを探す。浜に油で汚染されていると思われるラッコがいるのを見つけたら、回収員は稚さなインフレータブルボートに乗り換え、ラッコが海に戻れないよう進路を断つようにしてラッコのもとへ向かった。しかし、残念ながらいつもうまく行くわけではなかった。レスキュー員がラッコのそばに行くまでに水に戻ってしまうことも多かった。水の中でラッコを追いかけられるストレスが致命的になるため、そのような場合は放っておかなければならなかった。回収員はどこでラッコを逃したか記録し、数日後に戻り浜で捕獲できるかどうか確かめていた。

 

回収員にとって、ラッコの捕獲は非常に危険なものだった。船から湾内の冷たい海へ落ちる者もいた。水に転落した際浮かんでいられるサバイバルスーツを着ていたが、そのスーツは冷たい水をはじくものではなかった。水に転落したら、すぐに引き上げなければ油で汚染されたラッコ同様低体温症になってしまう。

 

悪天候により回収作業が中止になることもあった。そのような時は静かな湾内に錨を降ろし、嵐が通り過ぎるまでそこで待っていなければならなかった。

 

ラッコレスキューセンターから数百マイル離れた場所で捕獲されるラッコもいた。船からセンターへラッコを運ぶため、フロート水上機(訳者注:水の上に浮かぶことができる飛行機)やヘリコプターがあらかじめ決められた場所と時間に船と待ち合わせ、レスキューセンターへラッコを運んだ。しかし、悪天候の場合(そのようなことがしばしばあった)、航空機は飛ぶことができなかった。このような場合、回収船の場所によってはその船がラッコをセンターに運ばなければならなかったが、一日仕事だった。これは汚染されたラッコにとって貴重な時間を費やしているだけでなく、回収船が不足している中で、ラッコをセンターで降ろして再び油で汚染されたラッコがいる場所へ戻るまで、仕事ができなくなってしまっていた。

 

流出から数週間後、回収員らは方法を変えた。浜に上がっている時に急いでラッコを捕獲に向かうのではなく、湾内に網を設置した。これらの網はラッコが泳いで通りそうな場所に張られた。網を張った後、回収員は1時間おきに24時間体制で網をチェックした。網にラッコがかかっていたら網から外し船に運んだ。この方法を使って、24時間に30頭ものラッコを捕獲することができた。

 

ラッコを捕獲し治療のためセンターへ運ばれても、野生に返すまでにはまだ長い道のりがあった。

Roland Smith
Sea Otter Rescue - The Aftermath of an Oil Spill
Published in  1999