1989年3月24日、1艘の巨大タンカー、エクソン・バルディーズ号がアラスカ州プリンスウィリアム湾のブライ岩礁にぶつかり座礁し、当時米国史上最悪の原油流出事故となりました。
バルディーズとスワードにラッコレスキューセンターが作られ、多くのスタッフとボランティアが、油で汚染されたラッコを懸命に助けます。この洗浄・リハビリを行ったポイントデファイアンス動物園水族館のローランド・スミス氏の本、Sea Otter Rescueの翻訳をお届けします。本の写真は掲載できませんので、Archive.org(https://archive.org/details/seaotterrescueaf00smit/page/n71)でご覧ください。
3 ラッコが油に汚染されたとき
ラッコは、プリンス・ウィリアム湾にある隔離され守られた生息地に吹き込む風に、一日中注意を向けていた。風が強くなれば、ラッコは神経質になる。嵐が来ることが分かるからだ。しかし、その嵐が何をもたらすかまではラッコは知る由もなかった。午後までにラッコたちはケルプに体を固定させていた。ケルプを後足に絡め、ラッコたちは風が音をたてて吹き始め、水がうねりだすのを辛抱強く待っていた。冷たい水から出て海岸から数フィートの岩に非難するラッコもいた。
生後1か月の赤ちゃんの母親は、最後の危険を冒してエサを獲りに潜った。うねった水に子どもを置いていくのは気が進まなかったが、自分と子どものために今食べておかなければならなかった。嵐がひどくなれば、次にいつ食べられるか分からなかったからだ。母親は注意深く胸から赤ちゃんを降ろし、水の上に浮かべた。赤ちゃんは起こされて鳴いたが、母親は気に留めなかった。赤ちゃんが水に無事浮かんで、僅かの留守の間大丈夫であろうことを確認した。
母親はエサを探して暗く静かな力強く水の中を進んだ。露出した岩沿いに嗅ぎ進みながら、大きなムラサキイガイの塊を見つけた。前足を使い貝を2つ取り、前足の下にあるたるんだ皮に入れた。しっかり獲物をもって、母親は後ろ足でひと掻き、ふた掻き進み、水面に顔を出した。水中にいたわずかな時間のうちに、風が急に強くなていたようだった。
母親は子どもを探して辺りを見回したが、すぐに見つけることができず、警戒を強めた。雨が降り始めたため水面が波立ち、遠くまで見えづらくなってしまった。遠くから、小さく高い声が聞こえた。母親は急いで声のするほうへ向かった。間もなく、赤ちゃんが波だった水面に揺られているのが見えた。
母親は赤ちゃんを抱き、胸の上に乗せ、すぐに体中をなめてグルーミングし、毛を乾かすために空気を毛の奥深くに吹き込んだ。赤ちゃんの毛が乾き満足すると、赤ちゃんにミルクを与え、その時になって初めて自分の空腹をどうにかすることを考えられるのだった。
慌てて赤ちゃんを探したため、途中で貝を一つ落としてしまったことに気が付いた。半分しかないがこれで満足しなければならない。残った貝を歯で噛み砕き、オレンジ色のふっくらとした身を食べた。嵐がかなり強まったため、子どもと一緒に悪天候をしのげる安全な場所を探さなければならない。
母親はケルプのほうへ泳いで向かい、安全そうな嵐から守られた場所を運よく見つけることができた。
エクソン・バルディーズ号から流れ出した原油は、強風と高波に押され、湾のほうへ向かっていた。
油がラッコに出会うと、すぐに毛に付着する。ラッコは毛についた油を取り除こうとするが、グルーミングすれがするほど、油は毛の奥深くに入っていってしまった。グルーミングの際、ラッコは多くの有害な原油を飲み込んでしまい、病気になった。
油で毛が汚れてしまうと、冷たい水がラッコの皮膚に浸透してくる。ラッコは体が冷え、浮くことができなくなってしまう。グルーミングすればするほど、多くのエネルギーを燃焼し、体が冷えていった。陸に上がったラッコもいた。しかし、残念なことに、あの母親と子どものように、陸に着く前に溺れて死んでしまった。
油は間もなく湾の中一帯に広がっていった。油にひどく汚染されたラッコもおり、僅かに汚染されたラッコもいた。しかし、どのラッコも、苦しい時を過ごさなければならなかった。
翌朝までに、群れの中のラッコのうち数頭が死んだ。まだ生きているラッコも、汚染された状態で苦しんでいた。
救助が始まる
原油の流出から24時間たたないうちに全米からアニマルレスキューの専門家がバルディーズに集まってきた。バルディーズは小さな町で、ホテルが2つしかなかった。油の除去作業や油に汚染された動物を助ける人たちでホテルはすぐに満員になった。バルディーズに集まる数百人の宿泊に対応するため、エクソンUSA(巨大タンカーエクソン・バルディーズ号を所有する会社)はレスキューや洗浄要員の寝る場所を確保できるよう、地元の人々にお金を払い家を宿泊施設として開放してもらうようにした。
ラッコの救出のコーディネートのため、ハブズ・シーワールドリサーチ研究所の科学者がエクソン社に雇用された。救出を手伝ってもらうため、その科学者は全米から獣医師、動物学者、生理学者、毒物学者、配管工、大工などが集められた。
過去の原油流出事故の主要な犠牲者は鳥だった。原油流出でラッコが犠牲になったことはほとんどなかったため、レスキューに関わる人たちはどうやってラッコを助けたらよいのか分からなかった。最初はできることをし、経験を重ねて、設備を変えていった。半分に切ったプラスチック製の樽の上に網をかぶせてラッコの洗浄台を作った。ラッコを洗い、すすぐ時に油が下に落ちるようにしたものだ。また、水産業で獲れた魚を市場へ運ぶのに使われる桶からラッコのケージが作られた。配管工はお湯を引き、レスキューの人々がお湯を使ってラッコを洗うことができるようにした。お湯があれば、油が落としやすく、またラッコの体を温めることができる。
最初のラッコレスキューセンターは、大学の建物を野生生物リハビリテーションセンターに変えたものだった。こうした施設のほとんどは油で汚染された鳥のリハビリテーションに使用されたため、ラッコが使える部屋は2つしかなかった。油で汚染されたラッコの数が多かったため、ラッコのために別の施設が必要なことが明らかになった。バルディーズにある大きな体育館を借り、ラッコレスキューセンターにした。
バルディーズは非常に小さな町で最寄の大きな町までは車で8時間もかかるため、大量に必要な物資を手に入れることが非常に難しかった。アラスカの大きな町や他の州から何千パウンドもの備品が船で運ばれた。その中にはヘアドライヤー、櫛、木箱、手袋、ネット、薬、ゴム長靴、レインスーツ、針金、パイプ、木、タオル、獣医師用の器具、ホース、ノズルなど、ラッコを助けるための施設に必要なあらゆるものが装備された。
レスキューに携わる人の多くが24時間体制で働き、座って休める椅子がある時だけ仮眠をとることができた。こうした人々の食事を賄うため、エクソン社は地元のレストランを雇い、温かい食事を提供した。
事故から2週間後までに、原油はアラスカ南部の沿岸域3000平方マイルに広がっていた。水面では灰色をした厚い堆積物が風化し、ピーナツバターほどの粘度のある粘りのあるタールのような物質に変わった。潮の満ち引きや風に押し流されて油が広がるのに伴い、何百頭ものラッコが汚染された。
Roland Smith
Sea Otter Rescue - The Aftermath of an Oil Spill
Published in 1999
コメントをお書きください