本日は2018年3月7日付のPost Magazineから、"Pelt and road: how trade with China was smoothed with furs from British Columbia"をお届けします。カナダのラッコ猟の歴史についての記事です。科学的な研究に関する記事は多いのですが、こうした歴史にまつわる記事はあまりないので、興味深かったです。
バンクーバーは何十年もの間、香港の中国人にとって人気の移住先であり、1997年の中国への主権返還が近づくにつれ、1980年代、90年代に香港からカナダの西海岸への移住が加速した。香港の市民の多くが外国のパスポートを入手するために殺到し、「バックポケット・インシュランス・ポリシー」(訳者注:保険のシステムの一つで、保険が適応された後の医療費の支払い上限金額が加入する保険により定められている)が発行されると同時に逃亡した。
カナダ、特にバンクーバーへの大規模な流入により、問題が生じないはずはなかった。景色のよいブリティッシュコロンビアの街は香港人の移民が多かったため、もじってVan Kong(バンコン)あるいはHong-couver(ホンクーバー)となった。
しかし、景色がよく法の支配を尊重する英語圏の避難場所で、太平洋の反対側にある安全な場所が、実は18世紀に中国との貿易が急増した結果イギリスの領土となったということを、香港のパスポートを持った「カナダ人」のうちどのくらいが知っているだろうか。その土地から得られる商品が何だったか知っているだろうか。ラッコの毛皮だ。
中国とのビジネスを確立しようとする貿易商にとって問題は、中国の消費者が欲しがるもので輸入ビジネスが経済的に成り立つくらい十分な商品を買い付けることができるものを見出す、ということだった。
更に、貿易対象になる商品は中国が国内で生産できないもの、つまり自然でその材料が存在せず、生産環境が不適切で、あるいは技術を必要としているものでなければならなかった。
何千年もの間、毛皮は中国全土で冬のコートの材料として使われ、特に寒さの厳しい北部で求められていた。ラッコの毛皮はその柔らかな毛皮と非常に高価な価格により「海のオコジョ」として知られていた。ラッコは希少だったため、最初は銀とほぼ同じ重量で取引された。
カナダの本土から離れたバンクーバー島のヌートカ湾キングジョージ湾としても知られているが、ここはこうした海洋生物の主な供給源となっていた。野生に数えきれないほど生息していたのだ。先住民のイヌイットの人々は、自分たちが着る衣服のためにラッコ猟を行っていたが、それまではラッコを商業的利用はされていなかった。
こうした状況は1780年代に一変した。イギリス人の公開船長ジェームス・クックによる1776年に始まった3度目の太平洋探検航海で、後にブリティッシュコロンビア州となる海岸の調査を広範囲に行い、地図を作製しその経済的可能性の評価を行った。
海洋調査の根底には、茶、絹、磁気、扇子、やその他の高級品の需要が主な原因となっている、増大する中国との貿易不均衡を是正するのに役立つものを見つけるという理由があった。
毛皮は主な天然資源であり、寒さの厳しい中国北部が主な市場になることが想定された。
高品質の毛織物は中世以来イギリスの腫瘍な輸出品目だったが、中国で取引が成功したのは少量に過ぎなかった。他のイギリス製品は中国市場においてほとんど魅力がなかった。実際に収益の高い需要は、フランス製の時計や鐘付きの時計、ピジン英語で「シングソング」ととなれた同様の高級品だけだった。
インドの綿花(アラブ人、インド人、ヨーロッパ人の商人により東南アジアで数世紀もの間大きな成功をおさめていた)も、中国のでの直接的な需要をほとんど満たさなかった。
首尾よく取引された布地はチルボンやペカロンガンなどのジャバの北部沿岸の港町を迂回して、中国への輸出のためそこでピンタドス(ポルトガル語の「染めたもの」という言葉から)と呼ばれる美しい中国スタイルの布地に変えられた。
ブリティッシュコロンビアと中国の間の毛皮貿易は19世紀に入っても好調に継続したが、ラッコの数が急激に減少するにつれ着実に減っていった。中国の消費者には他の毛皮、特に柔らかく温かく染色が容易で安価に取引されたウサギも人気が高まった。
Post Magazine
Pelt and road: how trade with China was smoothed with furs from British Columbia
7 MAR 2018
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