【記事】ラッコが教えてくれたこと | What a dying sea otter tells us

今回は、個人的な体験についてのお話しです。
毎週のようにラッコを見にいっていると、できれば見たくない場面に遭遇することもあります。それはラッコの死です。

生まれ出づる者はすべてその命が終わりを迎える時がくることは理解していますが、実際に目の前で命の火が消えていくのを見ることはかなりの覚悟が必要です。

倒れていたラッコ

2015年2月のある週末。
私たちはいつものように、モス・ランディングでラッコたちを観察していました。

大きな群れはなく、ラッコがばらばらと思い思いに休んだりグルーミングをしたりしていました。

 

午後になって、潮がかなり引きました。

ちょうど数日前までKing Tideと呼ばれる大潮が訪れており、満潮と干潮の水位の差が大きい時期でした。モス・ランディング・ハーバーの中も、半分近くまで海底が露出していました。見ると、1頭のラッコが水際で寝そべっていました。そのラッコの写真を撮っていると、隣に初老のご婦人が立っていました。

 

「あのラッコ、具合が悪いのよ。私、アニマルレスキュー(野生動物の保護団体)に電話したの」

波打ち際で倒れていたラッコ
波打ち際で倒れていたラッコ

アメリカへ来て驚くことの一つは、こうした野生動物を見つけたらどうすべきかということを、みんな知っているということです。日本だと警察や役所に電話しますが、アメリカではまずアニマルレスキューへ電話するのです。日本に野生動物を専門にする救護組織があるかどうかはわかりませんが、アメリカには様々な動物の保護団体があります。海獣専門、鳥専門の保護団体もあります。カリフォルニア中央部では、ラッコについては基本的にモントレーベイ水族館へ連絡がいくようになっているようです。そして一般市民がそこに電話すべきだということを知っているのです。これはひとえに教育の賜物だと思います。

 

モス・ランディングに通っていると、時々そのような方に出会います。

ラッコが浜に上がって休むことを知らない人もいるので、ただ寝ているだけのラッコを具合が悪いと勘違いして通報する人も少なくありません。一度見かけた方は、寝ているラッコに向かって小石を投げて生きているかどうかを確認していましたが、それは明らかに法に触れる行為でした。

 

しかしこのラッコは明らかに様子が変でした。

打ち寄せる波が顔にかかっても避ける仕草もなく、鳥がつついても力なく後ろ足をぴくりと動かすだけでした。

 

そのご夫人は、続けました。

「そうしたら、電話でさんざん待たされた挙句、水族館へ連絡してくれ、って。それで水族館にも電話したわ。水族館は、人手が足りないとか、もう少し様子をみないといけないとか、明日には行けるかもしれないとか、そんな返事だったわ・・・」

 

'Saving Otter 501'(【記事】ラッコ501号を救え!)というドキュメンタリーにもあったように、モントレーベイ水族館のラッコ保護プログラム(通称SORAC)のメンバーは週に数回通報を受けて保護に向かいます。水族館の裏でラッコの世話をし、救助し、また自然に返したラッコがきちんと適応できているかどうかの調査なども行っています。その合間を縫っての出動ということになりますから、水族館がただ「人手が足りない」と言うわけではなく、本当に人手が足りないのかもしれません。

 

保護動物であるため、一般人が野生のラッコに触れたり、近づいたり、餌をやったりることは法で禁じられています。ですから、このラッコが本当に死にそうだとしても、一般人であるわたしたちは決して手出しすることはできません。じっと見守ることしかできないのです。

 

「彼らは明日来るとかいうけど、潮が満ちたらあのラッコは流されてしまうか、溺れてしまうかどちらかでしょう。それが分かっているのにどうして何もしないのか」

そのご婦人は悔しさに満ちた目で、身動きできないラッコを見つめていました。

 

しばらくして、カリフォルニア州魚類野生生物局の職員の方が巡回にきました。そのご婦人はその職員の方へも交渉し、なんとか保護してもらえないかお願いしていました。職員は電話でどこかと話していましたが、特に何か変化があったようには見えませんでした。

 

夕方になっても誰も保護に来る気配もなく、そのご夫婦と私たちは車を並べて、日が沈むまでなすすべなくそのラッコを見守っていました。

 

日が落ちて視界が悪くなってきた頃、そのご婦人が私たちの車の窓をコンコンと叩くので窓をあけると、

「わたしはできることは全てやった。でも、彼らはなんの行動も起こしてくれなかった。最後まで見ていてくれてありがとう」

そう言い残して、そのご婦人はご主人に促されるように、去っていきました。

わたしたちも、後ろ髪を引かれる思いで、エンジンをかけ、パーキングを後にしました。

帰路、家に帰ってからもあの波打ち際にいたラッコのことが頭から離れませんでした。

普段は週に1度行くだけですが、翌日いてもたってもいられず、再びモス・ランディングへ向かいましたが、前日に見たラッコは姿が見えなくなっていました。まだ朝早い時間だったので、その時間までに関係者が死体を回収するのは難しいと思われました。恐らく夜の間に潮が満ち干きを繰り返したため、流されてしまったのでしょう。

最期の瞬間

2016年元日。
アメリカの元日は通常の祝日と同じ感覚なので、日本のようにのんびりするということはありません。
モス・ランディングハーバーもよくある休日のような賑わいでした。

 

元日は非常に寒く、強く冷たい風が吹いていました。水の上で休んでいるラッコもいれば、浜で日向ぼっこをしているラッコもいました。その中で1頭、動きの鈍いラッコが見えました。そのラッコは波打ち際にやっとのことで這い上がっていました。

 

実は前の週、そのラッコが浜に上がっているのを見ていました。毛のつやがなく、身体に力が入っていないのかほとんど這いつくばるような恰好でやっと浜に上がっているようでした。遠くからしか見ていませんが、腹部に切り傷のようなものが見えました。薄いピンク色をしていたので、出血は止まっていたようでした。

 

そのラッコは前の週見た時よりも、更に衰弱しているように見えました。とは言え私たちは専門家でも何でもなく、確信が持てなかったので、もう少し様子をみることにしました。

 

しばらくしてそのラッコはまた水に戻っていきました。体をひきずるようにして、しばらく波打ち際にとどまっていましたが、来た波に体を預けるようにし、波打ち際で仰向けになり、ただ流されるままになっていました。

通常ラッコは水の上にる時は熱が逃げないよう頭部と足ヒレを水面から出しています。しかしこのラッコは、頭部の半分と足ヒレ全体がすでに水の中に浸かってしまっていました。頭を上げる力もなかったのかもしれません。仰向けになったり、うつ伏せになったりと回転しながら、時折ふうっと大きく息継ぎをしていました。また通常ラッコの毛は水をはじくため、水に触れている部分が空気の層で光って見えるのですが、このラッコはグルーミングをきちんとすることができていないようで、毛がへたってしまっていました。おそらく保温を十分できていないのでしょう。それでも水の中に戻っていった理由が分かりませんが、見た感じ明らかに死期が近づいているように思えました。

通報すべきか?
元日で休日ではありますが、モントレーベイ水族館のラッコのホットラインは1年365日1日24時間通報を受け付けています。(営業時間以外は留守電対応)ただ、通報したところで2月の時のように人手不足などを理由にすぐ保護されないかもしれません。また保護に来られたとしても、このラッコが元気になるとはとても思えない様子でした。保護されてもどのみちすぐ死んでしまうのなら、このまま生まれ育った場所で死なせてやったほうがいいのではないか。人間だってそうでしょう。病院でたくさんの管につながれて死ぬより、自分の家で畳の上で死ぬほうがいいと思う人は多いでしょう。


そう思いなおし、通報するのをやめました。

力なく波打ち際に浮かんでいるラッコ。間もなく息をひきとった。
力なく波打ち際に浮かんでいるラッコ。間もなく息をひきとった。

他のラッコが突然、そのラッコに寄っていく場面がありました。
衰弱した動物は身の危険を感じると防衛のために攻撃的になると聞いたことがありますが、このラッコも最後の力を振り絞って、寄ってきたラッコを一瞬威嚇しましたが、その後また同じように浮かんでいました。

 

1羽のカモメがそのラッコの周りをウロウロしていました。

時々体を突いていましたが、その時にはラッコは抵抗する力も残されていないようでした。

 

そのうち、そのラッコはうつ伏せになりました。
顔は水の中に浸かってしまっており、時々ふっと顔を上げて息継ぎするほかは、身動きすることもなく浮かんでいるだけでした。その息継ぎの間隔は次第に長くなり、ついに顔を上げることもなくなりました。

 

「あのラッコ、死んでるんじゃない?」

「死んでないと思うよ」

「死んでるわよ」

「いや、生きてるよ」

隣でラッコを見ていたカップルがそんな話をしていましたが、何も言えませんでした。

 

周りをウロウロしていたカモメが、ラッコの体や目玉を突き始めました。

それも自然のサイクルとは理解しているものの、さっきまで生きていたラッコにスカベンジャー(腐食動物)がたかっている姿を見るのは、辛いものがありました。しかし、これも自然で生きている動物にとっては当たり前のことなのです。他の動物を食べることで生き、死んだら他の動物になる。そうやって循環することで生態系が成り立っているのです。

 

例えば銃に撃たれたとか、ボートにぶつかったなど、人間により致命傷を負った場合は、人間が責任を持って助ける必要があります。しかし、寿命や自然な病気などの場合、どこまで人間が関与すべきかは非常に難しい問題です。


昨年の2月に瀕死のラッコについて通報した際、モントレーベイ水族館が「人手が足りない」「明日まで様子をみる」と言ったのは、本当に人手が足りないのかもしれないし、自然に死んでいくものであれば自然に死なせるという方針なのかもしれません。もちろん立場的にはあらゆる通報を推奨しているため、表だって「自然死の場合は保護しません」とは言えないでしょう。おそらく電話での通報状況から、そのラッコがおそらく自然死であり、保護したとしても大きく寿命を延ばすことにはならないこと、保護の優先順位としては最優先にはならないことなどを考慮して、結果的に当日の保護には踏み切らなかったのかもしれません。


モントレーベイ水族館を含む北米の水族館では、人為的にラッコを繁殖させるということをしていません。ラッコがただ増えればいいと考えているわけではなく、飼育するのはあくまでも野生に返すことができない個体のみで、その飼育下のラッコも野生のラッコの保護について啓蒙活動をしてもらうという立場です。野生のラッコが本来あるべき姿になるようサポートを行うことが課題になっているからです。もし飼育下でどんどん繁殖させそれを野生に戻したとしても、それは今野生に生きているラッコとの競争を激しくするだけになってしまう可能性があります。人間によりマイナスの状態になったラッコを人間が関与することでプラスに戻すのではなく、できるだけラッコが自力で毛皮貿易以前の状態に戻れるようサポートするという考え方なです。生態系は複雑で敏感なので、突然ある種が増えてしまうと突如バランスが崩れてしまい、その増えた種自体も結果的に危機に陥ってしまうことになります。生態系が自然にバランスをとる力学の中で、ラッコが自力で繁殖していける環境を作っていくことに力を注いでいるのです。モントレーベイ水族館だけでなく、アメリカの水族館の多くは非営利で入場料や寄付金で活動しています。限られた資金、時間、保護スペース、人材、そうしたものをすべて考慮し、ラッコという種全体の繁栄にとって最善の選択をしていかなければなりません。だから、自然の死は自然のままあるべきことだと考えており、むやみに保護するのではなく、自然のまま死なせてあげることにしているのかもしれません。

2月当時、そんな事情をあまり理解していなかったため、モントレーベイ水族館が迅速に対応してくれないことに少し落胆しましたが、今となってはそれも理解できます。

 

2月の時のラッコ然り、元旦のラッコ然り、生まれて死んでいくというのは自然の大きなサイクルです。
死んだ動物は他の動物のエサとなり、他の命を生かしていく。ここに生きる野生のラッコたちも例外ではないのです。そんな大きな自然の摂理に対して、人間ができることには限界があり、また関与しないほうがいいこともあるのかもしれません。

 

波打ち際に浮かぶ背中を見ながら、これでよかったのかもしれない、そう思いました。