1965年から71年にかけてアムチトカ島でおこなわれた核実験により、ラッコをはじめ多くの野生生物たちが犠牲になりました。当時の様々な記事からその影響をうかがい知ることができます。今回は、1971年11月6日に行われた最大の地下核実験カニキン前後のラッコに関する報道をご紹介します。
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1965年10月29日のロングショット(深度714m、80キロトン)、1969年10月2日のミルロー(深度1,220m、1メガトン)、1971年11月6日のカニキン(深度1,860m、5メガトン)の3度の実験が行われました。カニキンは、アメリカ史上最大の地下核実験で、広島の原爆の400倍の規模だったと言われています。
ラッコの楽園が5メガトンの核実験場に(The Otter Raft No.5 1971年5月)
(1971年)4月13日のNBCニュースで、デイビッド・ブリンクリーは原子力委員会がアムチトカ島で5メガトンの爆弾を爆発させる予定だと発表した。この島はアメリカが1936年にアリューシャン列島国立野生生物保護区の中のラッコの保護区として制定したもので、第二次世界大戦中陸軍と海軍の基地として利用された時以外はその制定時から内務省が管理している。戦後、アムチトカ島はもとの認可された用途に戻され、いくつかの保護プログラムが実施されてきた。その中には、最初のラッコの回復プログラムもあった。1960年まではこの島は魚類野生生物局とアラスカ漁業狩猟局が管理する、平和な島として保持されてきた。
この島を原子爆弾や水素爆弾の実験地として奪ってしまうという考えは、原子力委員会の数名の人間によって進められていた。ピエール・サリンジャーが述べたように、偶然この秘密計画はケネディ大統領に見つかってしまい、すぐに凍結された。しかし1964年、原子力委員会は再びアムチトカ島を核実験地にすると発表した。市民による抗議活動が広がったが、最初の核実験となった「ロングショット作戦」を止めることはできなかった。ロングショットは1965年、8万トンの核爆弾を用いて地下2,300フィート(約714m)で行われた。そして再び、1969年に1メガトンの水素爆弾を地下8,000フィート(訳者注:記録には4,000フィート、約1,220mとある)で爆発させた。実験前の生物環境研究の実験では、ラッコを鋼鉄製の水槽に閉じ込め、その中で50mmのカノン砲を発射し、ラッコのショックのしきい値を調査していたが、ラッコは1頭も生き残らなかった。
原子力委員会は5メガトンの実験の詳細については口を閉ざしている。そのような強力な爆弾を、地震が多く不安定な太平洋の地域で行うことは、それだけでも十分計画を凍結するに値する理由である。しかし、再度言うが、それに加えて国立野生生物保護区に制定された場所であり、特にラッコの保護区とされた場所である。これは、わたしたちの権益と財産に対する犯罪であるといえる。
The Otter Raft No.5
Friends of the Sea Otter , May 1971
written by Lewis A. Carter
グリーンピース設立から40年(2011年9月13日 The Independent紙)
40年前、アメリカの核実験後アラスカの海岸に死んだラッコが流れ着いているという1本の電話が、環境団体グリーンピースの設立につながった。
アーヴィング・ストウとその妻ドロシーはその知らせに憤慨し、故郷であるカナダ西海岸のバンクーバーから署名活動を開始し、「波をたてるな」という団体を結成した。
彼らの娘、バーバラ・ストウはその団体の始まりを思い出す。後に国際的な環境活動団体グリーンピースへと成長し、木曜に創立40周年を迎えた。
アラスカのアムチトカ島で行われたアメリカの核実験後、「浜に打ち上がっていた死んだラッコは爆発で鼓膜が破れていた」と彼女の父は聞かされていた、とバーバラはAFP通信にに語った。
-The Independent
Vancouver marks birth of Greenpeace 40 years ago (冒頭部抜粋)
Tuesday 13 September 2011
訳者注:環境団体のグリーンピースはアムチトカ島の核実験を機に創立された。3度目のカニキンの実験を阻止するため船で現地へ向かったが、沿岸警備隊と悪天候のため爆発には間に合わなかった。しかしその活動は世論に大きな影響を与え、アメリカはアムチトカ島での核実験を断念し、アムチトカを「鳥の保護区」に制定する。
カニキンー最大の地下核実験
地震計測試験は、直接の爆発の結果、マグニチュード6.8を記録した。
爆発後の30日間で記録された余震は1,000回以上、マグニチュード4.0に達した。
爆発により生まれたエネルギーにより、島に設置された設備が25フィート(約7.5m)も飛び上がった。
爆心地から2マイル(約3.2km)に広がる海岸線の多くが崩れ落ちた。
実験場近くの浜と海底は、5フィート(約1.5m)も隆起した。
これらの爆発実験が、グリーンピース設立のきっかけとなった。
アムチトカの核実験、ラッコと少数の鳥が犠牲に(1971年12月8日ユージーン・レジスターガード紙)
アラスカ州アムチトカ島(AP通信)-アメリカ原子力委員会は土曜日、議論の巻き起こった地下核実験カニキンの後、ラッコが1頭、「鳥が数羽」、休息地と浅い湖が発見された唯一の犠牲者であると発表した。
原子力委員会の広報官ヘンリー・ヴァーミリオンはまだ捜索は完了していないと強調しつつ、アムチトカ島における環境への影響についての予備報告書は間もなく公表されると述べた。
バーミリオンによると、クルーは日曜に全長23マイルの島を縦横に調べ、海岸をパトロールし、5メガトン近い地下核実験により魚類や野生生物に対し有害な影響を与えた証拠になるものを探した。
アメリカ史上最大の地下核実験となった今回の実験は、壊滅的な地震を引き落とすことも津波を引き起こすことも反対派が懸念していた放射能漏れもなかった。
しかし原子力委員会は爆発後の調査は少なくとも1年は継続されるとし、環境への細微な影響がないかーないことが望まれるがー島を細かく調査すると述べた。
日曜日、バーミリオンは浜の調査隊が、明らかに爆発による大規模な地滑りにより怪我をしたと思われるラッコを1頭発見したと述べた。また、島の浜で明らかに地すべりによる犠牲となった「数羽」の鳥(種類は不明)がいたと述べた。
強力な爆発は、爆心地から4,000フィート(約1.2km)離れたベーリング海沿いの2マイルに広がる浜で、落石や地滑りを引き起こした。
深さ約6,000フィートの爆芯から1.5マイルの、島の太平洋側では小規模な地滑りが起こった。バーミリオンは地滑りは想定の範囲内だと述べた。
バーミリオンによると、爆発による明らかな犠牲がもう2つあり、一つは崖にあるハゲワシやハヤブサの営巣域、もう一つは爆心地近くの淡水湖で、底に亀裂が入ったため水が流れ出てしまった。
原子力委員会の委員長ジェームズ・R・シューレシンガーはカニキンの安全性をアピールするため荒れ果て住む人もない島へ妻と子どもを連れていった。月曜にアンカレッジ経由でワシントンDCへ戻る予定だ。
「技術者たちがデータの分析を始めています。初期の報告にたいして満足しています。実験は十分に正当化されたものです。この時点で、カニキンの結果により、原子力委員会は武器の在庫にスパルタンを加えることができると思います」とシューレシンガーは述べた。
この爆発は、追撃ミサイル弾頭であるスパルタンの実験だった。この武器は、電子制御装置を駄目にするX線や中性子を遮断するものがついており、敵の大陸弾道ミサイルを大気圏外で爆破するよう設計されている。
研究者たちは、カニキンの爆発により爆発室のモニタリング装置が破壊される何分の一秒か前の間に集められたデータをさらに数か月かけて調べることになる。
環境問題専門家たちは、核実験に反対しアメリカの最高裁まで戦い敗れたが、この爆発が自然災害を引き落とす可能性があると述べている。
爆発により、マグニチュード8の揺れが生じたが、200マイル離れた島より遠くでは感じられなかった。また、地震性の波も生じなかった。原子力委員会は指の形をした島において観測機器の数値からは、放射線が漏れた「形跡はなし」と述べている。
-Eugene Register-Guard ユージーン・レジスターガード紙 1971年12月8日
アムチトカ島の爆発でラッコ死ぬ(1971年12月8日パームビーチポスト紙)
アラスカ州アンカレッジ(UPI通信)-アラスカ州当局は先月行われたアムチトカ島における地下核実験の結果、900頭から1,000頭のラッコの死亡が推定されると昨日発表した。
アメリカ原子力員会は以前、爆発後に見つかったラッコの死体は20頭だけだったと述べている。
しかし、漁業狩猟局のコミッショナー、ワレス・ノーレンバーグは爆発当時の嵐でラッコの死体は海へ流されてしまったり、爆発地近くの崖が浜に崩れ落ち死体が埋まってしまった可能性が高いと述べている。
ノーレンバーグは島の2か所、太平洋側の海岸及びベーリング海側の海岸には実験前にはかなりの数のラッコが生息していたが、実験後はほとんどいなくなってしまったと語っている。
アリゾナ大学生物学博士候補生のジム・エステスと漁業狩猟局のカール・シュナイダー、ジョン・ヴァニアは実験後1週間以上かけて現地の調査を行った。
エステスによると、5メガトンの核爆弾爆発前にはその付近に1,200頭ほどのラッコが生息していた。
「私たちが数えたところ、最高でも155頭です」とエステスは言う。「ラッコが自然に現地から去った可能性ももちろんありますが、実験前となぜ同じ状況でないのかという生物学的な理由が見当たりません」
- The Palm Beach Post パームビーチポスト紙1971年12月8日
衝撃波によりラッコ1,000頭が死ぬ(1972年7月23日サンデー・ニュース・ジャーナル紙)
アラスカ州アムチトカ島(AP通信)-5メガトンの地下核実験が大地を揺らしてから9か月後、アムチトカ島を調査中の生物学者によると、衝撃波により太平洋およびベーリング海近辺に生息していたラッコの死亡数は約1,000頭にのぼると語った。
しかし、原子力委員会の爆発により、委員会が当初予想していたよりも多くのラッコが死んでしまったことを指摘していたアラスカ州狩猟局の生物学者は、金曜、離れたアリューシャン列島の島に生息するラッコには「長期的にみて顕著な損害はない」と述べた。
科学者たちは、アムチトカ島には6,000頭から8,000頭のラッコが生息していると推定している。原子力員会との契約のもと、州および国が派遣した組織や大学の研究者たちは、アンカレッジかの南西1,200マイル(約1,920km)に浮かぶ木も生えない岩だらけの島で1か月以上にわたる調査を最近完了し、1年前、1971年11月6日の爆発以前に行われた同様の調査と比較するラッコの個体数調査をまとめた。
アラスカ州狩猟局アンカレッジの生物学者カール・シュナイダーと他の科学者たちは、コードネーム「カニキン」と呼ばれる地下核実験の爆心地から最も近いベーリング海沿いの浜に沿った7マイルにわたり、非常に注意深くラッコの個体数調査を行ったと述べた。シュナイダーは、新しいラッコの個体群が、カニキンにより死んだラッコたちが残した、餌を獲り子どもを育てる場所に移動してきた形跡があると述べた。
シュナイダーは「この地域には、実験前1,200頭のラッコが生息していましたが、現在は約500頭です」と言う。また彼は、観察により、「両側からこの地域にラッコが移動してきた、明らかなパターン」が解明されるだろうと付け加えた。
-The Sunday News Journal サンデー・ニュース・ジャーナル紙 1972年7月23日
島に亀裂を入れた爆弾(2013年9月29日 カウンターパンチ)
即座に環境与えた影響は、すざましかった。かつて絶滅近くまで乱獲されたラッコは、爆発の衝撃波で約1,000頭が死んだ。他の海棲哺乳類も、目が眼窩から吹き飛んだり肺が破裂して死んだ。数千羽の鳥が消え、背骨が折れ、足が身体を突き抜けていた。
-The Counterpunch
The Bomb that Cracked an Island, SEP 29, 2013 (一部抜粋)
by JEFFREY ST. CLAIR
カニキンとアムチトカ島のラッコたち(The Otter Raft No.7 1972年12月)
「アムチトカ島で行われる想像を絶する威力を持つ悪意ある行動を正当化できる理由が説明されていないという点において、われわれは団結している」
マサチューセッツ州のエドワード・W・ブルック上院議員と連署した36名の上院議員が1971年11月4日にニクソン大統領に宛てた電報より
アリューシャン列島アムチトカ島の地下6,200フィート(約1,860m)で爆発させるよう設計された5メガトンの核爆弾、カニキン。誰がそんなものを好きだというのか。明らかにアラスカに住む人は好きではない。核実験を中止すべきだとして署名を行ったカナダのブリティッシュコロンビア州の住人70,000人もそうだ。環太平洋に住む他の人々も誰もそんな実験など必要ないと思っていた。アラスカ州のグレーベル上院議員はそんな不十分な理由で、そんなに大きなリスクを冒すべきではないと主張した。その核実験の環境に対する影響を調査するよう命令されたくにの環境局の多くも反対していた。
シエラクラブやフレンズ・オブ・ジ・アースのような保護団体は、カニキン実験の中止を訴え、最高裁まで戦ったが最終的に却下されてしまった。カナダのトゥルードー首相と日本政府は大統領に対し抗議を行ったとみられている。防衛省ですら、広島の450倍以上の規模があるこのちかっかう実験に対し十分大義名分を提示しなかった。原子力委員会だけがその実験を望んでいるようだった。公聴会では国家機密であるという口実でその必要性を説明することを拒否した。これは、1964年にアムチトカ島が実験場にされた際に原子力委員会が用いた口実と同じものだった。この島は1936年に国立のラッコ保護区に制定された。その後、原子力委員会は実験は一度、80キロトンの爆弾だけだと約束した。しかしこの後1969年に1メガトンの水素爆弾ミルローの実験が行われ、最近またカニキンの実験が行われた。カニキン実験を開始する権限を持つのは大統領だけだった。そして1971年11月6日、ニクソン大統領は原子力委員会に対し、その核弾頭を爆発させる命令を出した。
爆発後の数日間、不気味な静けさが島を覆った。原子力委員会のスポークスマンはラッコが若干死んでいたことは認めたが、実験の前にあった嵐が原因ではないかと述べた。11月19日の公開報告書で原子力委員会は18頭のラッコの死体を回収したこと、そして、おそらく「爆発により傷ついた」ラッコはもういないと発表した。原子力委員会はカニキン実験の4日後の11月10日に死体の回収が中止になったことについては述べなかった。また、原子力委員会はアラスカ州漁業狩猟局が300頭から800頭のラッコが行方不明になっていると推定しているということも、その報告書で述べられなかった。原子力委員会と契約していたアリゾナ協同野生生物ユニットのジェームズ・A・エステスがアンカレッジ・デイリーニュース紙におそらく1,000頭から1,000頭のラッコがカニキン実験の結果死んだと述べて初めて、この事実が明るみに出た。アラスカ漁業狩猟局のメンバーがフレンズ・オブ・ザ・シーオターの海洋生物学者ジャドソン・ヴァンデヴェールと電話で話した際にも同様の数字が示された。
アラスカ漁業狩猟局の生物学者カール・シュナイダーとジェームズ・エステスはアムチトカ島を訪れ、爆発の前の日に特定のエリアの浜で調査を行った。彼らは死んだラッコを1頭を見つけることはなかった。彼らは島から一旦去り、11月6日の爆発の数時間後、再び島へ戻ってきた。それから3日間、彼らは浜を歩き、島の両側から死んだラッコやアザラシ、鳥の回収を行った。彼らはアンカレッジの北極圏保健研究所のロバート・L・ローシュの協力を得ていた。ローシュは死んだ動物たちの検死を行った。ローシュ博士は爆発が起きた際岩の上で休んでいた鳥たちは地面の隆起により死んだことを発見した。中には身体の中に足が突き刺さるほど変形しているものもいた。調査チームは、カニキンが崖の表面や海食柱(海によって岩盤が侵食された結果形成された、急峻な斜面を持つ柱のような形状の岩)や切り立った地形を破壊し、潮間帯の浜は満潮時でも露出している状態だった。この破壊によりメスのラッコが上がってくる陸地の90%以上が失われてしまった。崩れ落ちた岩石の下敷きになり深く埋まってしまったため完全に調査することは不可能だった。鳥を殺してしまった垂直加速は、ラッコたちを頭蓋骨骨折、肋骨骨折、内臓破裂などで殺してしまった。3つめに広く見られた死因は超過圧力だった。原子力委員会が保持するバッテル記念研究所は20頭から240頭のラッコがこのような原因で死んだと推測していた。それは一度に個体数の10%が潜水中であるという確信に基づいたものだった。これはアムチトカ島で起こったことを説明できるものではなかった。何故なら、超過圧力で死ぬためにはラッコは海底近くにいなければならなかったし、メスのいる地域での90%の死については、超過圧力がゼロに近い海面もしくは海面近くでおこっていたことを示していたからである。
カニキン実験前のアムチトカ島のラッコの個体数は約8,000頭であったと推測されている。島のベーリング海側には1,250頭いたと推測されている。11月19日から21日までの3度の調査によると生き残ったラッコは153頭だけだったと推測されている。カール・シュナイダーは最高で1,000頭から1,330頭のラッコが島全体で失われたのではないかと見積もっている。
カニキン実験により、別の影響もでた。アムチトカ島から他のエリアへの移殖が鈍化したのである。メスが多く失われることにより少なくとも5年間は個体数の増加を鈍らせてしまうが、アムチトカ島の個体群については将来的にずっと影響を受けるというわけではない。
原子力委員会が約束通りアムチトカ島から出ていくか、環境に対する災害を引き起こしてもこの島で核実験を継続するのか、答えが必要だ。
The Otter Raft
No.7
Friends of the Sea Otter , May 1972
written by Lewis A. Carter
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