【記事】アムチトカ島のラッコたち (1)| Victims of the Amchitka Test -1

アラスカ、アリューシャン列島に位置するアムチトカ島。米露冷戦下の60年半ばから70年代初め、ここで大規模な地下核実験が行われました。それに先立ち、実験域に住むラッコたちの移殖が行われました。今回から数回、アムチトカ島のラッコたちについての動画や記事などをお届けします。本日はアメリカエネルギー省が作成した1968年の古いドキュメンタリーフィルム"The Warm Coat"の書き起こしをお届けします。

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背景

アムチトカ島ハーレクインビーチ photo by USFW - Wikipedia
アムチトカ島ハーレクインビーチ photo by USFW - Wikipedia

動画を見ていただく前に、アムチトカ島と核実験の歴史的背景について簡単にご説明します。

アムチトカ島はアリューシャン列島ラット諸島に属する火山性の島です。海洋性気候で、夏場も最高気温が10度前後と寒冷で、嵐が多く、一年を通して曇っていることが多く、晴天の日は年に10日ほどしかないそうです。ラッコやアザラシ、海鳥など野生生物が多く生息しており、2500年ほど前からアリュート人と呼ばれる人々が狩猟中心の生活を送っていました。18世紀、ロシア皇帝の命で探検していたベーリングに発見され、その後ラッコやアザラシの毛皮目的でロシア人がやってくるようになります。後にロシア皇帝エカテリーナ2世に謁見した大黒屋光太夫が漂着したのもその頃でした。1832年以降、定住する人はいなくなりました。
アムチトカ島を含むアリューシャン列島の島々は、1867年のアラスカ購入に伴いロシア領からアメリカ領になり、第二次世界大戦中は「アリューシャン方面の戦い」で空軍基地として利用されました。

第二次世界大戦後、アメリカとソ連を中心とした冷戦時代が訪れ、双方は熾烈な核開発競争を行っていました。購入当時は「巨大な保冷庫」と揶揄されていたアラスカは、ベーリング海や北極海を挟んでロシアと国境を接する、軍事的に非常に重要な場所となりました。60年代に入り、過剰な開発と実験を抑制するため、大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約(通称部分的核実験禁止条約)が100か国以上により1963年に調印・発効され、またアメリカとソ連は1964年に地下核実験制限条約、76年に地下核実験の規模を150キロトンに制限する平和目的地下核爆発制限条約を締結しますが、こちらの発効は90年代に入ってからでした。

アムチトカ島で行われた3度の核実験は、まさにこの条約の締結と発効の狭間で行われました。
1965年10月29日のロングショット(深度714m、80キロトン)、1969年10月2日のミルロー(深度1,220m、1メガトン)、1971年11月6日のカニキン(深度1,860m、5メガトン)の3度の実験が行われました。カニキンは、アメリカ史上最大の地下核実験で、広島の原爆の400倍の規模だったと言われています。

 

65年の核実験後、アメリカ原子力委員会はアムチトカ島に生息するラッコを、かつてラッコが生息していたアラスカの他の地域、ワシントン州、オレゴン州、カナダのブリティッシュコロンビア州に移殖する計画をたてます。これはその移殖計画についての記録動画です。ラッコのハービーとその仲間たちが新しい家に落ち着くまでの冒険を描くというストーリーになっています。

動画は、エネルギー省、つまり「実験を行った側」の視点となっています。


この動画はかねてからご紹介したいと思っていましたが、その後についての資料がだいぶ集まりましたので、順次ご紹介していこうと思います。

暖かい毛皮 The Warm Coat


忙しい日が終わり、リラックスするのはいいですね。平凡な日ですが、忙しい日。この、暖かい毛皮をまとった動物たちは餌を探すだけで1日のうち多くの時間を費やします。この時期、この海は餌を探すのも大変ですが、状況は好転するでしょう。


ータイトル 「The Warm Coat」

アムチトカ島はアラスカ州アンカレッジから南西に約1,400マイル(約2,240km)離れたアリューシャン列島のはるか端にある、4番目に大きな島です。アリューシャン列島には多くの野生生物が繁殖していますが、これらの面白味のない、霧に包まれた島々近くの冷たい海に住む動物の中で最も独特なものは、ラッコという水棲の哺乳類です。陸上では不格好で無力ですが、海では優雅で品があります。銀色のひげがあるためか、真面目で賢く見えます。しかし実際は、人見知りで疑い深い性格です。ラッコには、人間に苦しめられた記憶があります。人間は何世紀にもわたって、ラッコの敵でした。かつてラッコは鳥の群れのように数多く生息し、アリューシャン列島の端からメキシコに至るまでのアメリカ沿岸で泳ぎ、餌を獲っていました。しかし、それははるか昔のことです。世界で最も高級な毛皮。細かく、密度が高く、高級でした。200年もの間、猟師たちは海を行き来しラッコの群れを殺しました。20世紀になると、この楽しい遊び好きの動物は、絶滅の一歩手前にいました。

風の強い海岸に住む他の毛皮を持った動物たちも同じような目にあいましたが、自然資源が永遠に失われてしまう前に、保護活動が始まりました。1911年、最初の膃肭獣(おっとせい)保護条約が調印されました。ラッコや他の動物たちは現在、法律により保護されています。1913年、アリューシャン列島は国立野生生物保護区になりました。僅かに残っていたラッコの個体数は増え始めましたが、その過程は非常に遅々としたものでした。
通常、ラッコは一度に1頭しか子どもを産みません。双子、三つ子は非常にまれです。妊娠期間は約1年で、生まれて1年間子どもは無力です。子どもは母親の胸にしがみつき、気楽に過ごします。母親は寛容で愛情深いですが、厳しくもあります。母親は潜って餌を獲ったり、水の中にじっとしたり、敵から身を守って寝るために身体をケルプで包んだりすることを教えますが、その際に何度も子どもをぶつこともあるかもしれません。

ラッコの寿命は約15年です。毎年個体群10頭当たり1頭の割合で増えると推測されています。それでもラッコの個体数は増えてきています。アリューシャン列島、プリンス・ウィリアム湾、カリフォルニア州モントレー湾に大きな個体群が生息しています。おそらく、合計で2万5000頭から3万頭が生息していると思われます。しかし、かつて非常の多くのラッコが生息していた場所には、現在ラッコはいないのです。

アムチトカ島では自然資源が支えられるだけの個体数を上限として、ラッコの数が増えていきました。直近の調査ではこのハービーを含め3,000頭のラッコが数えられています。

ラッコは非常に食欲旺盛です。1日に体重の4分の1ほども食べます。貝やカニなどを好みますが、魚やイカなども食べます。テーブルマナー?我慢できないようです。胸の上がテーブルです。器用に、自信ありげに前足を使いますが、どうしてもこぼしてしまうようです。
体毛が汚れてしまうと、防水機能が失われてしまいます。そのようなことが起こると、皮膚が晒されて危ない状態になります。体温が下がり、冷たい海が生命を脅かします。ラッコの命は清潔さにかかっているため、食べたあとは毛をごしごしするのに多くの時間を費やします。早く動けば食べかすが落ちやすくなりますが、自分で落とすほうが好きなようです。耳の後ろや脇の下、食べかすが落ちやすい胸の上や頭のてっぺんまで、精力的に毛づくろいします。ああ、気持ちいい。毛づくろいは毎日の雑事の中で最も時間がかかりますが、食事もまた重要です。平均的なオスの成獣は80ポンド(約36kg)ほどあり、その体重を維持するために大量のエサを食べなければなりません。

アムチトカ島はかつては餌に恵まれていました。今日、同じ地域は増え続けている個体群を維持することができません。通常、ラッコは大きく移動する動物ではありませんが、もし移動できたなら、2世紀前にラッコが生息していたアリューシャン列島とカリフォルニアの間の場所でもっと繁殖していたかもしれません。アラスカ州は、ずっとアムチトカ島のラッコを他の選ばれた場所に移し、そこで繁殖させようと主張してきました。困難ではありましたが意欲的な事業でした。

1968年、アムチトカ島は忙しくなりました。アメリカ原子力委員会はアムチトカ島を、遠隔地下核実験の補助実験場として開発する計画にとりかかっていました。そのための設備、地上交通網が整備されました。施設やアラスカの移殖チームが宿泊できる宿舎が作られ、C-130機が定期的に設備や物資を満載して到着し、帰りの便にはほとんど荷物がない状態でした。「ラッコ大作戦」が進行中でした。原子力委員会が協力がありましたが、この協力がなければなしえない事業でした。アメリカ内務省、アラスカ州、アメリカ原子力委員会が一つになり協力的な保護活動をチームとして行いました。熟練し厳しい気候に慣れたアリュート人の猟師たちが1968年にアムチトカ島に到着しました。彼らの監督官はアラスカ州魚類狩猟局の海洋生物学者が担当しました。


クルーたちは、沖のケルプ棚へ向かいます。そこにラッコが隠れているのです。波がうねり、穏やかになることがない海。じめじめした、冷たい空気。しかし、この海でかつて狩りを行っていた頑健なアリュート人の子孫たちです。陸から離れた海の上で、彼らは一人ぼっちではありません。そこここに、ヒゲが生えた濃い色の頭が見えます。ケルプはラッコを守ってくれるものです。ここにも、人間から隠れているのがいます。荒い波や突然の嵐の中でも’ケルプに包まり、貝やウニ、魚などを食べます。ナイロン製の網がケルプ棚の周りに張り巡らされました。


好奇心旺盛だったり、不注意だったりすると、ラッコは自分から網に入ってくるときもあります。毎朝毎朝、船が出て網が張り巡らされました。クルーは毎週約50頭のラッコを捕獲しました。ラッコたちは陸へ運ばれ、新しい棲家となるところへ空輸されるまで餌を与えられ、世話をされます。もう、楽になりました。


保持用の水槽へ。全部で4つの水槽があります。清潔に保つため、常に新鮮な海水が汲み上げられ、汚れた水を排出するようになっています。それぞれの水槽に、10頭から15頭のラッコがいます。


ハービーは相変わらずです。サービスは良く、食事のメニューもいいです。イカ、エビ、カニ。この移殖作戦の間、仲間のラッコたちは10,000ポンド(約4,500kg)もの餌を食べます。一度に移殖されるラッコは50頭から60頭で十分です。


さて旅の支度ができました。簡単なものです。

C-130機が60頭のラッコを運びます。全部で、7回の輸送になります。輸送時間は目的地によって異なり、3時間から8時間かかります。乗客のラッコたちができるだけ心地よく過ごせるよう、気圧は高度1,500フィート(約450m)、気温はラッコが耐えられる限界の低さに保たれました。


輸送機は離陸し、太平洋を越え、2000マイル(約3,200km)離れた目的地、アラスカ州南東部へ向かいます。ラッコたちは水陸両用機へ移され、アネットやシトカ近くの選ばれた場所へ運ばれたり、あるいはプリビロフへ船で運ばれます。夏の終わりまでに全部で359頭のラッコが運ばれ、アラスカ沿岸のなじみのある水域にていねいに放たれました。しばしの捕獲と言う侮辱に屈しながらも、ラッコたちは新しい自由を謳歌し、健康に過ごしています。アムチトカ島から平穏に空輸され、いつものようにはらぺこで、いまでもユーモアのセンスがあります。

この物語はハッピーエンドです。ラッコたちはかつてこの海に生息していました。100年以上たち、再びここで栄えることになるでしょう。時間はかかりますし、危険もあります。ラッコは海岸近くから銃で撃つには格好のターゲットです。本当にハッピーエンドになるかどうか、その一端はわたしたちにかかっており、あとは自然が証明することでしょう。移殖されたラッコたちは邪魔されず、繁殖しいずれはまとまった個体群となるでしょう。未来の世代へ引き継ぐ、豊かな遺産です。今のところ、ラッコたちは新しい棲家に満足しています。不躾に引越しさせられましたが、いずれ適応することでしょう。前と変わらずラッコたちは自分に必要な餌を探すでしょう。そして毛皮を清潔に、温かく保つでしょう。遊んだり、お互い楽しませたりするでしょう。あなたと、わたしのように。そうでしょう、ハービー?

THE WARM COAT

Film #0800037