本日は、Youtubeにあった動画をご紹介。
ラッコが直面する様々な困難を通して、人が自然と共存して生きていくためにはどうしたらよいかを考えさせられる動画です。
Palomar College Televisionの番組の書き起こし、パート1です。誤訳御免でお願いしますm(_ _)m
ラッコが直面する状況
カリフォルニア中央沿岸部は、この地球上で最も素晴らしい海洋生態系の一つです。
多様な生物が存在する生きたタペストリーのようなもので、愛すべきカリフォルニアラッコのふるさとです。
この素晴らしい動物を見ようと世界中から観光客がやってきては、その独特のしぐさに驚きます。
しかし、絶滅の危機から逃れることができたラッコが、再び危険にさらされています。
カリフォルニア沿岸において、過去3年間で前代未聞の数のラッコが死に至っているのです。
ニュース番組
「カリフォルニアラッコはすでに絶滅危惧動物リストに載っていますが、現在、死に至るラッコの数は増大しています。」
「カリフォルニア沿岸に警鐘。研究者によると2年連続でラッコがかなり高い死亡数をに至っているということです」
ここ2年でカリフォルニアラッコの死亡数が高くなっています。犯罪捜査官のように、研究者たちはこうした死の原因を探っています。
アメリカ魚類野生生物局 獣医病理学者 メリッサ・ミラー博士
「ラッコから学ぶべき教訓の一つに、彼らは様々なものから打撃を受けており、その多くはラッコの独特な生態や、沿岸に棲む他の海洋生物との違いに密接な関係があります。」
しかし、全ての人がラッコが繁栄することに対して賛成しているわけではありません。
ラッコは、南カリフォルニアの海から、ラッコ排除区域(No Otter Zone)をなくすという、アメリカ魚類野生生物局の決定に関する議論の中心になっています。
25年間、海上にあるこの想像上の境界線は、商業海産物産業の利益を守るために作られていました。多くの漁業関係者はこの境界線の廃止に憤っています。
漁業関係者
「なくしたって問題の解決にはならないよ。もっと問題の範囲を大きくするだけだ。中央沿岸部ほどよくないところまでもね。コンセプション岬に来てみたらいい。2千万人が住んでいるところに。「約束の地」に来させることは無意味だ。」
アメリカ魚類野生生物局コーディネーター「動物を増やしたければ、それらの生息できる場所を増やす必要がある、というのは生態学の大原則です。一つの場所に押し込めるということはできません。」
漁業関係者
「もしサンディエゴにラッコが来たら、商売はあがったりだよ。あれは環境団体だよ。奴らは恐ろしく金があるからね。あいつらは政治的な力もあって、こうやってごり押しするんだ。」
漁業関係者
「最悪だよ、ラッコは。最悪の生き物だ。北カリフォルニアでおとなしくしててほしいね。」
ラッコはまた、自然保護に税金を使うのは金の無駄と考える人々の非難の的になってもいます。
とある政治家
「カリフォルニアのラッコ保護プログラムについはもう話しただろう!私が主張した、カリフォルニアの予算から削るべきものの一つだったはずだ!私が知らない、ラッコやカメの保護を訴えるロビイストがいるのか?アメリカ合衆国を代表する、そういうロビイストを雇う必要があるか?ラッコ?カメ?くたばってしまえ!」
しかし生物学者はラッコが直面している困難な状況は、誰もが心配するようなことまで多大な範囲に関わってくると考えています。もし、ラッコが困難な状況にいるなら、、それは人間にも直接影響がある環境問題であることを示しているのです。
アメリカ魚類野生生物局 獣医病理学者 メリッサ・ミラー博士
「ラッコは、私が知る中で、陸海の汚染の歩哨動物(注:「炭鉱のカナリア」のように、人間に危険な環境を知らせる役割を果たす動物)として、唯一かつ最も優れたものです。ここカリフォルニアの環境に何か起こっているのか、ラッコが伝えようとしていることに対し私たちはもっと耳を傾けなければなりません。」
パロマ大学生物学教授 レスリー・ウィリアムス氏
「この沿岸からラッコがいなくなったとしたら、ケルプの森、そして実際、カリフォルニアの沿岸のあらゆる場所の生態系にとって壊滅的なことになります。」
汚染感染症、飢餓、漁業関係者との競争に脅威を受けている脆弱な生き物であるがゆえ、現代はラッコが生き延びていくには非常に困難な時代です。
苦難の歴史
かつてラッコは、北大西洋沿岸からバハ・カリフォルニアに至る範囲に生息していました。
ある時期、カリフォルニア沿岸のカリフォルニアラッコの数は16000頭ほどいたと考えられています。
ラッコはその範囲に十分生息していましたが、1700年代半ば、ロシア人の探検家たちがアラスカに上陸し、厚く、豪華な毛皮目的でラッコを獲り始めました。
1700年代終わりまでは、イギリス人とアメリカ人がそうした儲かるビジネスに加わりました。
この毛皮貿易の時代、20万頭のラッコが殺されました。1867年までには、ラッコの数は絶滅寸前になっていました。
1911年、残された全てのラッコを捕獲から守るため、国際毛皮貿易条約が調印されました。
しかし、こうした保護にも関わらず、1920年までにはカリフォルニア沿岸ではラッコは全く見当たらなくなってしまいました。
20年間、カリフォルニアラッコは絶滅したものと考えられていましたが、1938年、ビックサー海岸の岩礁のビクスビー橋で、50頭あまりのラッコの群れが発見されました。
生き延びたラッコの群れを幸運にも発見して以降、研究者たちは、ラッコの数が元に戻ると信じて注意深く観察を続けています。
1960年代、メディアの報道が増えた結果、ラッコが立たされている窮状が国民に知られるところとなりました。
テレビ番組
「生きたまま捕獲し、傷つけずに他の場所へ移したり、研究したりする技術が向上し、ラッコは二度と絶滅の危機に瀕することはないだろうという結論に至りました。」
ビクスビー橋で発見されて以来、カリフォルニアラッコの数は遅くとも、確実なペースで増えています。
1975年までには、カリフォルニア中央沿岸部のラッコは1600頭ほどになりました。
しかし1977年、カリフォルニアラッコは絶滅危惧種法により、絶滅危惧動物のリストに加えられました。
危惧される理由は、広範囲に及ぶ重油の流出により、カリフォルニアのラッコが完全にいなくなってしまう可能性があるということです。
パロマ大学生物学教授 レスリー・ウィリアムス氏
「ラッコは重油の流出により、特に被害を受けます。広範囲に及ぶ重油の流出があると、ラッコが休んだり、毛づくろいする水の表面に重油が溜まることになります。
ラッコは、体表を非常に密度の濃い毛で覆われており、それによって主に体温を保持しています。したがって、油が付着してしまうと、毛の保温機能が阻害され、濡れたセーターを着ても温かくないのと同様、体温を維持できなくなり、凍死してしまうことになります。
ラッコはあらゆる油の流出にも脅かされており、また自然にとって大打撃となるだけに、魚類野生生物局が実験的な試みとして1987年に他の場所への移殖が行われました。ラッコの一部カリフォルニアの中央沿岸部から遠くの、サンニコラス島に移動させたのです。もしカリフォルニアの沿岸で重油の流出がおこり、大半のラッコが被害にあったとしても、少なくとも、残ったラッコたちがそこに定着し、生き延びてくれるかもしれないという希望を持ってのことです。」
しかし、この移殖実験のために、議会で特別法を成立される必要がありましたが、条件付となりました。
アメリカ魚類野生生物局 カリフォルニアラッコ回復プログラム コーディネーター
リリアン・カーズウェル氏
「魚類野生生物局がラッコを別の場所に移す計画をまとめ始め、私たちはサンニコラス島を含め何か所か候補を考えていましたが、その時、海洋生物保護法により実験的に動物の群れを作ることが禁止されているという指摘を受けました。そこで、特別法の成立を請願するため、議会へ行かなければなりませんでした。それが公法の99-625です。
ご存じの通り、議会に行けば、もともとの懸案事項より多くのものを持ち帰ることになります。それが、この法律でした。」
産業保護と自然保護の狭間で
カリフォルニア沿岸のラッコが海産物を獲りつくすと主張する商業海産物業界からの強い圧力のもとで、1987年にNo Otter Zone、「ラッコ排除区域」が作られました。コンセプション岬から南の水域で見つかったラッコは、すべて魚類野生生物局が捕獲し、その区域外へ移動させなければならなくなりました。
環境保護センター スタッフ代理人 ブライアン・シギー氏
「『 ラッコ排除区域』はコンセプション岬にある海の想像上の境界線で、北カリフォルニアと南カリフォルニアを分ける場所とされています。ラッコが一たびその線を越えることがあれば、絶滅危惧種法と海洋生物保護法による保護を受けられなくなってしまいます。」
1987年8月から1990年7月にかけ、モントレーとモロベイの間で140頭のラッコが捕獲され、サンニコラス島で放されました。しかし、1991年の3月までの段階で残ったのはわずか13頭にすぎませんでした。場所を移されたラッコの多くはもといたコンセプション岬の北のほうへ泳いで戻っていきました。島への輸送中に死んでしまったラッコもいましたが、半数は二度と見つかることはなく、おそらく死んでしまったのだろうと推測されています。
Friend of The Sea Otterプログラムディレクター ジム・カーランド氏
「この移殖計画を推進した背景に、ある程度の数のラッコをサンニコラス島へ移動させることで、サンニコラス島で保護されているラッコを確保できることによる利点があると思われていましたが、実際はその全く逆の結果を招いてしまいました。」
残されたラッコたちは、サンニコラス島からラッコ排除区域へ出ることが許されていませんでした。
法では、排除区域へ出てしまったラッコはサンニコラス島もしくは、もとの生息地に戻される必要がありました。しかし、この計画はだめだということが分かったのです。
アメリカ魚類野生生物局 カリフォルニアラッコ回復プログラム コーディネーター
リリアン・カーズウェル氏
「1993年、管理区域から移動させた2頭のラッコたちが移動から2週間もたたないうちに死んでいるのが発見されました。それから、私たちはもう一度真剣に管理区域からの移動について、そのやり方や影響について見直す必要があるという結論に至りました。そこで、93年にラッコの移動をやめました。1999年まで、その区域に入ってきたラッコは実際いなかったので、移動をやめたことはさほど問題ではありませんでした。
1999年、多くのラッコたちが季節によってその区域に移動するようになり、漁業関係者が私たちにラッコをよそへ移すよう要求してきたので、私たちは待ってほしいと言いました。私たちは、この計画全てを見直しするまで、いかなるラッコも管理区域から取り除かないという宣言をすることになりました。」
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