【記事】失われたオレゴンのラッコ(3):避難民 | The Lost Sea Otters of Oregon: Part Three

本日は2019年10月26日付のOregon Wild Blogから、"The Lost Sea Otters of Oregon: Part Three"をお届けします。1960年代から70年代にかけ、アラスカを始めアメリカ西海岸の数か所でラッコの再導入が行われましたが、オレゴンでは唯一ラッコが定着しませんでした。

1970年初頭まで、環境からの搾取と劣化は米国の社会規範だった。しかし、1968年から1969年にかけてクリーブランドのクヤホガ川が13回も火災に遭ったことをきっかけに人々の意識も変化し始め、象徴的なハクトウワシを含む多くの種が絶滅の危機に瀕しているとの認識が広まった。

 

この新しい環境意識と、地球の天然資源は無限ではないという認識は、大気汚染や水質汚染、絶滅危惧種の保護などについての方針を変える根本的な環境法の成立につながった。


市民の抗議に応え、大気汚染防止法、絶滅危惧種保護法、国家環境保護法を支持し、環境保護庁を創設したのはニクソン政権だった。

在来の魚や野生生物については、周囲の環境に大きな役割を果たす種に関する科学が発展してきた。科学者らは、生態系の複雑な網からこれらの「キーストーン」種を取り除くことが、自然のバランスに有害な影響を及ぼしていることに気づき始めた。何千、何百万年もの間ともに進化してきた自然のシステムについて、生物学者は、ある種の動物がいなくなることがカスケード効果(訳者注:段階状に連続して起こること)を引き起こし、それがシステムを大きく変え始めたことを発見した。

 

自然界についての理解が飛躍的に向上したにもかかわらず、ラッコをアラスカから移動させることは、生態系の機能を回復させることにはならない。それは、核爆発からラッコの個体群のごく一部を救うということだった。これは単なる移植であって、より意味のある再導入ではなかった。

 

1969年から1972年の間に241頭のラッコがブリティッシュコロンビア州、ワシントン州、オレゴン州に移された。オレゴン州では、この取り組みにより、1970年に29頭がケープ・ブランコに、1971年には64頭がオーフォード・リーフとシンプソン・リーフに移された。その後の10年間で、オレゴン州に生息するラッコの数は徐々に減少し始め、この重要な種は再びいなくなってしまった。

 

当初、ワシントンへの移植も同様の結果をもたらすと考えられていた。1969年から1970年の間に59頭がポイントグレンビルとラプッシュに移されたが、その多くは死んで海岸に漂着した。しかし、わずかに残った10頭ほどのラッコが、今日の1,000匹を超えるラッコの個体群の基礎となった。

航空調査時のワシントンのラッコ。ワシントン州魚類野生生物局。

これらの移植したラッコの個体に関するデータの監視、追跡、データ収集は、その後の数十年間に極めてまれにしか行われなかったため、オレゴン州の取り組みが失敗に終わった理由について情報が不足している。しかし、疑問は残る。この移植はなぜワシントンでは成功し、オレゴンでは成功しなかったのか。

 

「これは再導入の最大の謎のひとつだと思います。少なくともオレゴンで再導入が失敗した理由とワシントンでの再導入が成功した理由を考えると」

 

オレゴン州立大学の研究者ドミニク・コーンは、オレゴン州でラッコが回復する可能性について生態学的評価を行っている。

 

コーンは次のように説明する。「私たちはワシントンよりも多くのラッコをオレゴンに連れてきました。ラッコをたくさん連れてきたわけではありませんが、ワシントンよりは多くの個体を連れてきました。数字だけを見るだけではあまり意味がありません。しかし、オレゴン州でリリースされたラッコは、故郷のアラスカの海に戻ろうと北上したのではないかという説もあります。そのように北上した際、ワシントンに移植されたラッコに出会い、ワシントンに留まることを決めただけかもしれません。しかし残念ながら、ワシントンの再導入が成功し、オレゴン州の取り組みが失敗に終わった理由を私たちが知ることはないでしょう」

 

一部の研究者はラッコが再び繁殖するのに適した生息地や餌がなかったのではないかと推測しているが、他の研究者はアラスカラッコにとって海の条件が適切ではなかったのではないかと疑問を呈している。

 

60年代から70年代最初の試みは失敗に終わったが、ラッコがオレゴンの海岸に戻ってくる日が来るかもしれない。

Oregon Wild Blog

The Lost Sea Otters of Oregon: Part Three
October 16, 2019