【記事】失われたオレゴンのラッコ(2):絶滅 | The Lost Sea Otters of Oregon: Part Two

本日は2019年10月8日付のOregon Wild Blogより、"Lost Sea Otters of Oregon: Part Two"をお届けします。毛皮交易時代のラッコの乱獲に関するお話です。

ビクトリア朝時代の劇作家クリストファー・マーローがトロイのヘレン(訳者注:ギリシャ神話に登場する絶世の美女。美しさゆえに誘拐され、トロイ戦争の引き金になったと言われる)について「千隻の船を進水させた顔」でありトロイ戦争という壮大な戦争を引き起こしたと書いたことは有名だ。ジョン・ウェバーは、人々の情熱をも煽るような顔を描き、太平洋沿岸の荒野に新しい事業を立ち上げる歴史を作ったことを恐らく認めるだろう。しかし、その顔はギリシャ神話の顔ではなく、丸く、ヒゲが生えていた。

ヌートカ湾の浜辺に寄り添う、巨大な顔とずんぐりした体を持つ動物を描いたこの絵は、ラッコというよりは浜にいるゼニガタアザラシのように見える。しかし、ラッコを覆う複雑に描かれた毛皮に、男たちは成功と繁栄を見た。ヘレンがスパルタから誘拐されたことが虐殺の引き金になったように、ウェッバーによるラッコの絵は、ラッコと太平洋北西部の先住民を破滅の瀬戸際に追いやることになった。

 

ウェバーのイラストは、ジェームズ・クック船長が英国旗のもとで、アジアとの交易をしやすくする北極を通る太平洋航路、つまり伝説の北西航路を探し航海していた際に発行された機関誌に掲載された。クックは1778年、現在のワシントン州にあるオリンピック半島の先端に到着したとき、数多くいたラッコについて述べていた。ウェバーはこの機会を忠実に絵にした。

ジョン・ウェバーによるラッコの絵


クックの航海に関する逸話が2つあるが、それらは北西部への「ファーラッシュ」の火付け役となった。

イギリス海軍の外科医が記録した壊血病の症状
イギリス・国立公文書館

1つ目はは今日まで伝えられているように、クックが壊血病を克服したという主張だった。その当時まで、壊血病は海において、嵐や難破、戦闘、その他すべての病気を合わせたよりも多くの死者を出していた。この病気は主にビタミンBとCが欠乏した結果起こるものだが、水夫が主食としていたアザラシの肝臓の過剰な摂取によるビタミンAの過剰摂取によりしばしば悪化し、皮膚の黒い潰瘍や歯の喪失から感覚に圧倒されるような症状、例えば岸から漂ってくる花の匂いで水夫が苦悶して叫ぶような症状まで、身体的および精神的な病気のグロテスクな症状を引き起こした。クックは、麦芽、酢、マスタード、ザワークラウトなどの食品を続けて摂取することで病気を抑えたり病気を克服したりしたと主張した。今日の学者たちは、クックがこの病気を克服することに成功したのか、あるいは単に幸運だったのかについて議論しているが、この主張は、それまで乗組員の半数から3分の2がこの病気で定期的に損害を受けていたイギリス人により、事実として賞賛された。


2つ目の、そしておそらく更にモチベーションを起こさせる報告は、クックが中国の広東省でラッコの毛皮を取引した際、1800%の利益を得たというものだ。そうしてえげつない利益を得ようという夢はあまりにも強く、クックの乗組員のうち2人は自分の財産を築こうと脱走した。

 

富を築くことが約束され、壊血病の脅威も克服されたため、より多くの遠征隊が北西部に急いで派遣された。しかし、毛皮交易は貿易と同様に縄張り争いであった。

 

クック船長が航海するころまでには、ロシアは既に何十年にもわたって中国とラッコの貿易を行っており、アリューシャン列島のはるか北で毛皮を集め、ラッコの数が着実に減少するにつれ海岸線を南に移動していた。ロシアは、帝政の支援を受けて、手近な(しかも高品質とされた)ラッコの個体群を枯渇させ、1780年代半ばに沿岸をを南下した。現在の南カリフォルニアにあたる場所では、スペイン人も足場を築こうとしていたが、ラッコの毛皮取引に関しては明らかに不利だった。カリフォルニアラッコはアラスカラッコほどの密度の毛皮を持っておらず先住民はラッコ捕獲の経験があまりなかった。

 

英国も北西部で影響力を確立しようとしていた。しかし、英国人は強力なラッコ貿易を確立するのではなく、ビーバーやカワウソに依存するようになった。これらの毛皮は中国ではあまり人気がなかった。10匹のビーバーの毛皮が、広東ではラッコの毛皮1枚と同じ値段で売られていることもあった。フランスや米国との紛争も英国の力と影響力を奪う原因となった。次第に、アメリカの貿易商、つまり「ボストンマン」がこの地域での支配的な貿易勢力になっていった。アメリカの船は最終的に建造費も操業費も安く、国内の港へのアクセスも速かった。

 

ロシア人が先住民を拘束した一方で、ヨーロッパ人とアメリカ人は彼らを独立契約者のように扱った。

 

多くの部族は、銃、アルコール、織物、その他の製品と引き換えに、交易したりラッコ猟の経験を貸したりすることを強く望んでいた。毛皮取引は多くの部族に物質的な富をもたらした。新しい武器や道具は先住民社会の狩猟方法から芸術の創造までも変化させた。また貿易は部族を複雑な世界経済へと統合し、毛皮に加えてサケや木材など他の物質を供給するようになった。

 

この繁栄は一時的なものだった。

毛皮交易が激化し、毛皮の入手が困難になると、部族はさらに搾取的な商業システムに引き寄せられた。貿易が北西部の先住民族に与える負の影響もより明らかになった。天然痘や梅毒のような新しい病気やアルコール中毒も蔓延した。一部の部族間や入植者間で先住民の奴隷取引が悪化し、激化した。

 

ピーターは、エラカ・アライアンスの創設者であるデイビッド・ハッチの息子だ。ピーターはオレゴン州のラッコに対する父親の関心と、ラッコと地元北西部の部族との関係を受け継いだ。

 

「父の研究の多くは、ラッコの個体群の健全性とオレゴンの先住民の健全性が、両者が経験した悲惨な19世紀、つまり主権の喪失と生命の喪失を通して、いかに互いに似ているかを追跡することでした。私たちは生き残りましたが、オレゴンのラッコは生き残ることができませんでした。管理者として私たちにはこの場所に対する世代を超えた責任を感じており、その間違いを正すためにできることをする責任があります」とハッチは言う。


ハンターと毛皮商人は非常に影響力があり、1820~30年代までに北西部のラッコの個体群は崩壊寸前になってしまった。

 

エラカ・アライアンスのボブ・ベイリー理事が指摘するように、「1800年代半ばには、ラッコの個体数は3000頭ほどまで減少しました。ロシア人、イギリス人、そして最終的にはアメリカ人の毛皮猟師や商人がラッコを乱獲したからです。一晩のうちに、ラッコはいなくなってしまいました」

 

そして1900年までには、ラッコがほとんどいなくなったという単純な事実のために、商業的な毛皮取引は干上がってしまった。

 

アラスカと南カリフォルニアにラッコがごく僅かに生き延びていたが、ここオレゴンではラッコは一掃されてしまった。

 

オレゴン・ワイルドの野生生物プログラム・コーディネーターのダニエル・モーザーは次のように締めくくっている。「オレゴンの海岸には長い間ラッコがたくさんいたのに、一夜にして絶滅したかのようでした。オレゴン州で最後に発見されたラッコは1906年、ニューポート近郊で殺されました。そしてその毛皮が900ドルで売られました」

らっこちゃんねるより:ラッコの毛皮の価値は?

オレゴンで1906年に最後にとれたラッコの皮が900ドルということでしたが、当時どのくらいの価値があったのでしょうか?

調べてみると、米国労働省の統計によると1915年のアメリカ人男性の平均年収は687ドルでした。ラッコの毛皮1枚900ドルがどれだけ高価なのかお分かりいただけると思います。

Oregon Wild Blog

Lost Sea Otters of Oregon: Part Two

October 8, 2019