【記事】ラッコが見た変化 | The Sea Otters See Change

本日は2015年11月25日付のOregon Wildから、3回シリーズの記事の2回目、"The Sea Otters See Change"をお届けします。ラッコのたどった歴史と、オレゴン州の現状についてのレポートです。 

前回の記事では基本的なラッコの生活を詳しく見ていった。今回は国際的な毛皮貿易による絶滅とその後の遅々とした回復を含むラッコの歴史について探求していく。

(訳者注:これはカワウソですが、元記事に載っていた写真をそのまま載せています。)
(訳者注:これはカワウソですが、元記事に載っていた写真をそのまま載せています。)

ラッコが進化して現在の形で存在するようになった日、動物界は間違いなく喜んだはずだ。可愛らしさ、愛らしさが非常にパワフルな生物だったため、人間はガラスに顔を押し付けたり双眼鏡に目を押し付けたりすることから、つぶれた鼻や緊張した目へ向かうようになった。それにしても、ラッコは一体いつ現在の形に進化し、その後はどうなったのだろうか。

 

ラッコ(学名Enhydra lutris)は200万年ほど前、遥か遠く日本やロシア付近の環北太平洋のどこかで進化したと考えられている。ラッコは日本の北部沿岸からアリューシャン列島、北アメリカ沿岸、最終的にはメキシコのバハ・カリフォルニアの青い海へ弧を描くように広がっていった。18世紀初めには世界中に約15万~30万頭のラッコが生息していた。1741年ピョートル号という船がラッコに出会い、ラッコの数は永遠に減ってしまうことになった。

ヴィトゥス・ベーリングは、国際的な毛皮貿易を引き起こし、ラッコを絶滅にほとんど追いやった。
ヴィトゥス・ベーリングは、国際的な毛皮貿易を引き起こし、ラッコを絶滅にほとんど追いやった。

ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリング(1681-1741)はロシア海軍に服務するデンマーク人の船長だった。ベーリングの名前は恐らく様々な地名に使われているためよく知られているだろう。ベーリング海峡、ベーリング海、ベーリング島、ベーリング氷河、ベーリング地峡などだ。

ヴィトゥスが亡くなる1741年以前、ピョートル大帝の命による探検の船長だったが、コマンドルスキー諸島で偶然ラッコに出会った。地理的な発見はその後何年も秘密にされたが、温かく艶のあるラッコの毛皮については運悪くたちまち知られるところとなった。

 

海洋毛皮貿易は18世紀の国際的な経済活動の主要な動力源の一つだった。ラッコの毛皮は金持ちのアジア人の間では贅沢な品だった。ロシア、イギリス、アメリカが主にラッコ猟を行い、毛皮は茶や絹、陶磁器や他の独特な製品と交換に中国へ輸出された。

 

毛皮を持つ海洋生物の猟を禁止した1911年の膃肭獣保護条約(おっとせいほごじょうやく)が制定されるまでに、世界のラッコの個体数は崩壊してしまった。この頃までに地球上のラッコの数はわずか1,000~2,000頭が残されるのみとなった。そして、アリューシャン列島やカリフォルニアを除く全ての場所から消えてしまったのだ。

膃肭臍保護条約が締結するまでに、ラッコの個体数は2,000頭までに激減してしまった。
膃肭臍保護条約が締結するまでに、ラッコの個体数は2,000頭までに激減してしまった。

今日、世界の様々な沿岸値に106,000頭のラッコがいると推定されている。

 

ここ米国では、ラッコはアラスカ州沿岸、ワシントン州、カリフォルニア州で見られる。絶滅に瀕したことからいくつもの保全プロジェクトが行われた。その中には、ラッコをもといた生息域へ再導入するという取り組みもあった。

 

アラスカには地上のラッコの90%が生息している。個体数は1970年代のピーク時に125,000頭だったが、アムチトカ島の核実験やエクソン・バルディーズ号原油流出事故などの環境災害や略奪、病気により1980年代半ばから55%~67%減少している。ラッコは現在、アラスカにおいて"Threatened"(絶滅の恐れがある)に分類されている。

 

1960年代から70年代にかけ、私たちのヒーローはワシントン州に再導入された。1981年に"endangered"(絶滅危機)に分類されたが、ワシントン州では1,000ほどが生息するのみだ。

1989年のエクソン・バルディーズ号原油流出事故は2,100キロメートルの海岸線と28,500平方キロメートルの海を覆った。
1989年のエクソン・バルディーズ号原油流出事故は2,100キロメートルの海岸線と28,500平方キロメートルの海を覆った。

カリフォルニア州には2,000頭のラッコが生息しており、大部分はモントレー近郊にいる。カリフォルニアにおける保護努力は1938年にビッグ・サーでラッコの群れが初めて目撃されてから始まった。しかし、その回復傾向は非常に遅く、年に5%の増加ほどになっている。

 

残念ながら、オレゴン州にラッコは戻ってきていない。もし野生のラッコを見たいと思ったら、車で北上にオリンピック国立公園へ行くのが一番いい。オレゴンの最期のラッコは1907年に殺されてしまった。再導入の試みも失敗に終わった。最後の試みは1970年代で、93頭のラッコたちは1980年代以降目撃されていない。

 

しかし、待ってほしい。運が良くて、非常に多くの時間があるなら(その時間をオレゴン・ワイルドでのボランティアをしていただけるなら)、1頭のラッコがこのオレゴン州の沿岸で跳ねているのが見られるかもしれない。非常に稀なことではあるが、ここオレゴンで定住しているラッコがいないにも関わらず、それでもここ10年の間に、2009年の紅いラッコの目撃情報も含めて何頭かのラッコが目撃されている。

 

まだピンとこない?ダミアン・リラード(訳者注:NBLの選手)が終了のブザーと同時に3ポイントシュートを沈めるのを期待する時だけに感じるような、熱のこもった期待をしつつ爪を噛んでいるだけ?それもいいでしょう。私たちも、ラッコがキーストーン種として沿岸を健全に保つのを手伝ってくれる様々な方法についてまだ探求してもいないのだから。

 
次回は:
なぜラッコは沿岸生態系にとってそれほど重要なのか。なぜラッコが復活することでオレゴンの沿岸が回復するのか。

Oregon Wild

The Sea Otters See Change

Nov 25, 2015 By Seth Heller